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2014年10月

2014.10.30

スタバで官兵衛

スタバで官兵衛

このブログでの官兵衛史跡は、三木合戦が終わり、鳥取、淡路を平定して、秀吉・官兵衛軍がいよいよ毛利との直接対決のために備中(岡山)に攻めこもうとしたところです。

司馬遼太郎氏の「播磨灘物語(下)」にその模様が書かれていますので、コーヒーを飲みながら、読みはじめました。

と言うことで、官兵衛ブログは、チョット休憩して、先日、参加した「西播磨ブロガーツアー」の様子をアップします。

2014.10.26

秀吉、官兵衛軍 淡路島平定(志知城)

秀吉は、岩屋城、由良城に続き、最後に志知城を陥落させた。そして、直後は、黒田官兵衛が在城して、四国の長宗我部氏に備えました。その後、加藤嘉明(よしあき 賤ヶ岳七本槍の一人)が城代になり、後、転封で秀吉の直轄地になりましたが、三原川の河口付近に叶堂が築かれたため、廃城となりました。



淡路島地図
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志知城跡
(しちじょう)

城跡は、志知交差点の東南に位置して、堀に囲まれているが、雑木、畑に囲まれているため、どこから入っていいか分からない状態です。南側に「この橋あぶない」と書かれた小さな橋がありますが、本当にあぶないです。中に入ると、秀吉が腰掛けたと言われる「太閤石」があります。後年この城は、加藤嘉明が入り、水軍を編成して小田原攻め、朝鮮出兵などに参戦しています。
志知城

茂みの中は、平地になっていますが、草が生い茂って城の遺構はみつかりません。
城内

上の写真の手前に畑があってそこに秀吉が座ったと言われている「太閤石」があります。
太閤石


南側に堀の跡がありました。
堀


東側にある鳥居ですが、ここは入口ではありません。左に周ると小さな橋があります。
鳥居

道順
志知の交差点東側に大日川にかかる橋から南へ100mほど行くと右手に伊勢神社あり、そこから西に行くと鳥居があります。
道順

伊勢神社
伊勢神宮


志知城への地図は こちらから
兵庫県南あわじ市志知松本


司馬遼太郎氏は、「播磨灘物語 野火」の中で志知城について次のように書いています。
9月に入って、海に凪の日が多くなった。このころ、官兵衛は、志知城(一名、野口城)という城に入った。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
淡路の志知城は島の西南端の内陸にある。官兵衛がここを策源地にしたのは、阿波に近いためである。志知城から二里半ほどで、浜に出る。あとは鳴門海峡をわずかに突っきるだけで、阿波の陸地を踏むことができる。官兵衛は淡路を平定しつつあるときに、すでに阿波の工作をはじめていた。

2014.10.24

秀吉、官兵衛 淡路島平定(由良、洲本、沼島)

1581(天正9)年11月、阿波の三好家からの要請で援軍を送り、官兵衛も淡路(まないた山城、岩屋)に上陸し、由良城、沼島城、洲本城を攻め落としました。官兵衛36歳の時です。


淡路島城配置図 あわじ地図
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由良城
淡路では、当時は由良城が中心でした。
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由良城(ゆらじょう)
官兵衛は、由良城を落とすため城主の安宅河内守を謀殺しました。官兵衛が人生で二人の人を切りましたが、その一人で、その刀が「安宅切」と呼ばれ、福岡市博物館に保存されています。 城は、由良対岸の成ヶ島に築かれていましたが淡路の中心が洲本に移ったため、荒廃しました。 


紀淡海峡を望む高台に設置された大砲 幕末に異国船の来航で、紀淡海峡の防衛のたに、由良の南方の現在の生石公園に大砲を設置しました。この地は、第二次大戦まで、軍部以外入ることはできませんでした。

大砲
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軍の施設跡
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紀淡海峡を望む
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洲本城 
秀吉は、淡路平定後、洲本城に仙石秀久を置き淡路を治めさせました。
淡路では、当時は由良城が中心でしたが、由良には、城下町を造る土地がなかったため1631(寛永8)年ころに、淡路全体を支配するのに適した洲本に中心が移りました。徳島藩蜂須賀領で、城代として稲田氏が派遣されました。

三熊山山頂にある洲本城
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天守閣
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洲本城から見た洲本市街
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沼島城(武嶋城 むしま)
1581(天正9)年、反織田の梶原氏が城主の時、秀吉軍の阿波の三好軍によって攻め滅ぼされました。城跡に、蓮光寺が建っていて境内に武嶋城(むしま)の碑があります。
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蓮光寺
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沼島港
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港 夕陽
沼島へは、船で10分ほどの距離です。人口は500名くらいです。1950年ころは、2500名ほどの人が住んでいました。
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洲本城の詳細地図は こちらから
由良城、沼島城は洲本の南にあります


司馬遼太郎氏は、「播磨灘物語 野火」の中で、淡路島平定について次のように書いています。

淡路の平定はさほどの難なくすすんだ。
もともと、この小さな島一つが国という土地のなかに豪族の数が多く、そのおもな者だけでも、安宅氏、釜口氏、田村氏、島野氏、・・・・・などがいて、それぞれが塁を高くし、城砦をかまえている。かっては安宅が最強で、諸豪がこれに服していたが、いまはさほど武威もない。安宅氏の本拠は、由良にある。・・・・・・・・・・・・・・・・
由良城ではかたちだけの攻防があり、安宅猶重は、降伏開城した。

2014.10.21

秀吉、官兵衛 淡路島を平定(岩屋城)

秀吉が淡路島を平定したのは、
1580年に三木城を攻略した後、秀吉は、1581(天正9)年6月の2度目の鳥取城攻めをして、官兵衛も参戦しています。城の周りの米を買占め鳥取城を兵糧攻めにして場内を飢餓状況に追い込み(鳥取の餓え殺し)、3か月で攻略しました。

同年の11月、官兵衛も参戦して、毛利の前線基地である淡路島を攻略するため明石から出陣して淡路島の北端にある「まないた山城」を落として、そのまま南下して由良城、洲本城、志知城など淡路島の主だった拠点を攻め落としています。淡路島は、織田信長の勢力下におかれました。


淡路島城地図

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まないた山城
淡路島の北端にあって明石からは一番近い所に位置します。城跡など、確認する遺構などはありません。
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左の橋は、明石海峡大橋

 

淡路SSより見た明石海峡(手前は岩屋)
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岩屋の街並み
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岩屋港(高速艇が明石まで運行されてます)
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まないた山城 岩屋の地図は こちらから
兵庫県淡路市岩屋大谷


淡路島の地図は こちらから

 

 馬遼太郎氏著「播磨灘物語 野火」で淡路平定について次のように書いています。

天正9年(1581)の秋が深むころ、官兵衛は明石の岸辺から小さな船に乗った。
目の前に、淡路島がある。海峡の潮の流れのうるやかなときを測って舟を出したのだが、それでも舟はゆるやかに流されてゆく。・・・・・・・・・・・・・・・・
岩屋城は、淡路島の北端にある。官兵衛がこの城に入ったのは昼過ぎだったが、・・・・・・・・・・淡路島は室町のある時期から、安宅氏という豪族が支配している。安宅氏は、かっては、紀州の熊野にいて、熊野海賊の一つの脈であり、安宅(地名)を根拠地にしていた。


淡路島についての記述は、「秋浅く」の中の別府城合戦で官兵衛が、毛利・雑賀軍2000人を相手に戦ったことが書かれています。


雑賀党は大阪の湾から出てくる。毛利軍ははるか西方の広島あたりから出ている。それらが、毛利圏の中に入る淡路島の岩屋で終結し、多数の軍船をそろえて、別府の浜にむかって漕ぎだしたのである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・淡路島の北端から播州海岸にいたるまでの海面に、ごまをまいたように船がうかんでいた。どの船も軍兵を満載し、この別府の海岸にむかってすすんでいた。

2014.10.19

合戦後の三木の街

三木合戦で荒廃した三木の町を復興させるため、秀吉は、地子免許(じしめんきょ)・諸役免除を認める制札を出しました。これを元に三木の町は復興して、現在の金物の町(大工道具などの生産)に発展していきました。

※地子免許とは 町屋敷地にかかる地子(農村の年貢)を領主権力が免除すること
※制札(せいさつ)とは 一般に知らせる禁止・伝達事項を書いて,道路などに立てておく札


物神社
鳥居

神社


本要寺
秀吉が行った制度の古文書などが保管されています。
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江戸時代に、赦免取り消しの危機にたたされましたが、町民代表が幕府に直接訴えて、この危機を脱しました。本寺の蔵に、その資料などが保存されています。
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供養碑
左:長治
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本要寺の地図は こちらから
三木市本町2-3-6


金物神社への地図は  こちらから



司馬遼太郎氏は、「播磨灘物語 別所衆」の中で、戦後の処置について次のように書いています。
かれ(秀吉)は、三木が陥ちるとすぐさま城下の商人に対し、免税すべき旨の高札(こうさつ)をたてた。占領した城下をただちに楽市楽座にするというのは織田家の大方針であり、それによって中世経済を桎梏(しつこく)から商人たちを解放し、商品経済を活発にするというのが目的だったから、秀吉のやったことはべつに独創ではない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
むしろ、中世においていやしめられていた商人たちは秀吉という人物の出現をよろこんだかのようである。農民も、籠城戦に参加しながら、うらんでいる様子もない。
※桎梏(しっこく)とは、「行動・生活などの自由を厳しく束縛するもの」

2014.10.14

有馬温泉

有馬温泉は、日本書記にも書かれた昔からの名湯で、多くの皇族や貴族、文化人に愛された日本最古の湯です。江戸時代に作成された温泉番付では、最高位の西の大関にランクされています。

ありま山 ゐなのささ原 風邪ふけば
いでそよ人を わすれやはする

温泉神社(とうせんじんじゃと読みます)
温泉を最初に見つけた、大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)が祀られています。
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この階段の上に神社があります
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温泉寺
奈良時代、僧行基によって建立されました。
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境内にある五輪塔
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僧行基像
温泉寺の前に立っています
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うわなり神社(道端にある小さな神社)
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金の湯
外湯です。大人:650円
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銀の湯
外湯です
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御所泉源
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炭酸神社
明治8年に検査が行われ、飲料水として適していることがわかりましたが、それまでは「鳥類、虫、けだものがこの水を飲めばたちどころに死すなり」と言い伝えられていました。
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有馬のお土産:炭酸せんべい
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仏座巌(太閤橋の近くにあります)
江戸時代、元政上人が仏座に似ていることから命名しました。現在は、洪水によって岩の上の部分だけが露出しています。
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袂岩(たもといわ)
高さ5m 周囲約19m
温泉神社の祭神:久須美命が乱暴者に投げた小石が大きくなったと言われています
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有馬温泉絵
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坂道の狭い路地 風情のある街並み
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有馬温泉の地図は こちらから



司馬遼太郎氏は、「播磨灘物語 村重落去」の中で、有馬温泉について次のように書いています。

 

有馬の湯はほとんど知りがたいほどの昔から、湯治場として栄えている。文字が広く行われるようになってからの記録でも、「日本書紀」に、欽明天皇がその3年(631)に有馬へ行幸し、滞留82日間におよんだということが見えている。

伝説では、聖武天皇の神亀元年(724)に僧行基がここに温泉寺をたて、ひとびとの湯治場としての施設をつくったという。それ以来、宿泊所は温泉寺の宿坊という名目で発達したために、「坊」という名前がつくようになった。

その後、一時衰退していたのを、鎌倉時代に仁西という大和の僧がきて、温泉を復興し、12の坊をたてたという。

2014.10.09

秀吉と有馬温泉

有馬温泉は、日本書紀、枕草子にも書かれている昔から有名な温泉です。奈良時代に、僧行基が温泉寺を建立しました。

その後、多くの戦乱、大火などで寂れたりしました。

三木合戦の最中、兵隊の怪我を治療するために有馬の湯を汲んできて秀吉の本陣平井山の近くの安福田に野風呂を造り療養させたと言われており、又、竹中半兵衛や黒田官兵衛も治療のために有馬に来ています。

三木合戦の食糧、怪我人の輸送などに三木と有馬を結ぶ湯の山街道が造られました。

1583(天正11)年、信長の後継者争いの後、秀吉が有馬を訪れています。相当気に入ったようで、その後何度も訪れた記録が残っています。

今回は、秀吉と関連のある場所を紹介します。

 

豊臣秀吉
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太閤橋
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太閤橋のそばにある秀吉像
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ねね橋
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太閤の湯資料館
1995年1月の阪神淡路大震災で壊れた極楽寺書庫下から秀吉が造らせた湯殿や庭園の遺構が見つかりました。その遺構は、埋め戻されていますが、その資料が展示されています。4_3

この庭の下に太閤の湯殿があります。
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岩風呂遺構
岩の割れ目を伝わって湯が流れた跡
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極楽寺
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念仏寺
太閤殿下、ねねの別邸
極楽寺のすぐ横にあります。
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善福寺

千利休に茶会を開かせたお寺
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利休居士供養塔
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有馬温泉地図は こちらから




司馬遼太郎氏は、「播磨灘物語 村重落去」の中で、秀吉と有馬温泉について書いています。

ところが天正4年2月24日(1576年)に大火があり、仏閣も町屋もことごとく灰になってしまった。このためにふたたび衰え、のちに天正13年(1585年)、秀吉がここを大修復するまでまったく荒野の観があり、湯治にくる者もまれで、湯に入るのもわずかに小屋掛けして雨露をしのぐ程度であった。

2014.10.06

別所長治公の墓

長治公の遺徳を偲び、毎年「別所公まつり」が5月5日に行われ、三木市の大恩人として今も語り継がれています。



別所公夫婦の首塚(雲龍寺)
長治公の首実験の後、住職が首を貰い受け埋葬したと伝えられている別所長治公夫婦の首塚首塚

首板

塚


雲龍寺

雲龍寺

首塚の横にある三木城の石垣
石垣



別所家霊廟(法界寺)
長治公の遺体を埋めたと伝えられています。夫婦の霊牌や画像、木造があります。4月17日にちは、三木合戦を絵物語にした大幅掛け軸を使い絵解きが行われます。
法界寺墓

公像

家臣の墓所
家臣墓

法界寺
法界寺

 

雲龍寺の地図は こちらから 



法界寺の地図は 
こちらから



司馬遼太郎氏は、「播磨灘物語 別所衆」の中で、埋葬した法界寺について書いています
 
 
三木城下十二カ村の庄屋が秀吉に拝謁し、別所長治の遺骨をもらいうけて、城外の法界寺に埋めてその霊を葬っているのである。

2014.10.03

別所長治・一族切腹 辞世の歌  首実験の本要寺

三木合戦は、1580(天正8)年1月、城主:別所長治と一族の自害と城兵の助命を条件に秀吉に降伏し、三木城が開城されました。
1年10ヶ月にわたる織田氏との戦いに終止符がうたれました。

 

 

長治公切腹絵図(三木城内合戦絵図より)
一月十七日自刃 長治公 享年23歳
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別所一族妻子自害
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長治公辞世の歌碑(三木城内)
「今はただうらみもあらじ諸人の命に
       かはる我身を思へば」
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別所一族辞世の歌碑
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右から

長治弟友之の辞世の句
「命をもおしまざりけり梓弓すゑの世までも名の残れとて」。享年21歳

 
長治妻辞世の歌
「もろともに消えはつるこそ嬉しけれ後れ先だつならひなる世に」 享年22才。

友之の妻の辞世の句
「たのめこし後の世までに翅をもならぶる鳥のちぎりなりけり」享年17歳


長治の叔父賀相の妻辞世の句
「のちの世の道も迷はじ思い子を連れて出でぬる行く末の空」


5番目の歌は、分かりません。

 

 

本要寺
天正8年1月、三木城が落ちると、秀吉は、平井山本陣からこの寺の本堂に移り、別所長治らの首実験をし、その後の戦後処理の場にしました。
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秀吉は、三木を復興させるため、地子免許(税を免除する)にしましたが、江戸時代に、赦免取り消しの危機にたたされましたが、町民代表が幕府に直接訴えて、この危機を脱しました。本寺の蔵に、その資料などが保存されています。
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供養碑
左:長治
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本要寺の地図は 
こちらから
三木市本町2-3-6

 

司馬遼太郎氏は、「播磨灘物語 別所衆」の中で、別所一族の自害について生生しく書いています。そして、首実験した本要寺、埋葬した法界寺についても書いています

 

長治と一族の自害は、天正8年1月17日、城内の「御殿」でおこなわれた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こういう場合の自害は、婦人たちからはじまる。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最初に、長治の叔父別所賀相の妻が、果た。・・・・・・・
装束は、他の婦人と同様、白羽二重(しろはぶたえ)の小袖である。まだ十歳にならぬ少年と、五、六歳の娘をそばにひきつけている。
「みなさま、あとよりお越しなされよ」
と、まず少年を引き寄せ、短刀をもって一息に刺し殺した。次いで、娘を殺し、息もみだれさせずに、辞世の歌を詠んだ。
「のちの世の道も迷はじ思い子を連れて出でぬる行く末の空」とうたいおえると、作法どおり乳房の下を突き、さらに刃をもとにもどし、のどを突いて、突っ伏せた。
次いで、長治の弟彦之進友之の妻の順である。・・・・・・齢十七で、懐妊していた。・・・・辞世を詠んだ。
「たのもしやのちの世までもつばさをばならぶる程の契りなりけり」
・・・・・・・・・・・・・・
最後に、長治の妻お照が、男女四人の子をつぎつぎに膝に抱きあげて刺し殺し、最後に介添なしで自害し果た。
「もろともに消えはつるこそうれしけれ遅れさきだつならひなる世に」というのがその辞世である。
彼女は、齢二十二であった。道連れにしたそのこどもは、五歳の竹姫をかしらに、四歳の虎姫、三歳の千松丸、一歳の竹松丸である。

 

別所長治は、妻子の自害を見とどけたあと、自分が切腹すべき場所にもどった。・・・・・・・・・・・・・・・
長治は、自分が切腹することによって士卒が助命される。悲運に立ち至ったとはいえ、そのことに辛うじての慰めを見出す心境にあったらしい。かれはすでに辞世をつくっていた。
「今はただうらみもなしや(注・あらじ、とも言う)諸人の命にかはる我身を思へば」
というかれの歌は正直な気持でもあったであろう。しかしながら、長治は別に末期の歌を詠んだともいわれる。
「ながはると呼ばれしこともいつはりよ二十五年の春を見すてて」
この歌は、自分の命のみじかかったことのうらみを、うらみのまま述べている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

〔本要寺〕
秀吉が、別所長治ら三人の首実験をしたのは、本要寺の境内においてである。本要寺は美濃川を城側にわたったところで、三木城の本城である「釜山」が目の前にある。

 

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