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2014.09.30

淡河弾正の戦い

三木城の東の淡河城の城主:淡河弾正(おうごだんじょう)は、三木城主:別所長治と婚姻関係にあって、同盟を結んでいました。秀吉の弟の秀長軍が淡河城に攻めてきたとき、雌馬の群れを放って、騎馬軍勢を混乱させ、その隙に城に火をつけて、三木城へ逃げ延びます。1579(天正7)年9月、平田、大森の合戦で奮戦しますが、撤退の途中で、八幡の森で割腹してみごとな最後をとげました。(41才)

 

淡河・大村の戦い(クリック拡大)
6_5

三木城内合戦絵図より




淡河城
本丸と天守台跡、堀跡が残っています。
淡河城

 

天守台
淡河石碑

東側石垣
Photo


8

淡河家の墓
城跡天守台の近くにあります

淡河墓
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淡河弾正の墓
平田、大村の合戦で、撤退の途中に、ここ八幡の森で割腹して最後をとげました。 
淡河墓

弾正墓 平田合戦


八幡森史跡公園
八幡森

6_6






 

淡河城への地図は  こちらから 
神戸市北区淡河町
 

 

淡河弾正の墓への地図は  こちらから
三木市加佐八幡の森史跡公園

 

司馬遼太郎氏は、「播磨灘物語 別所衆」の中で、淡河城と淡河弾正の死を次のように書いています。

 

淡河城(おうごじょう)
淡河は、地名でもある。仮名ではふつうアフゴとかかれるが、オーゴと発音する。
三木城の東方にあたり、渓流の道を20キロばかり入った山峡の小盆地である。この小盆地の南辺にそびえる定釈山という586メートルの山を越えれば摂津の国であった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川が出合う地形であるために、おそらく逢河(あふかわ)とよんだのが地名のおこりだったのであろう。川は西流してやがて平野に出ると、河原がひろくなるのだが、その平野にでたあたりに、三木城がある。このため三木城にとっては、淡河は上流の防衛地といっていい。

 

淡河弾正の死
淡河弾正は、あとの三木城外における大村合戦でその家来が五騎になるまで戦い、戦いが不利になるや、その五人とともに車座になり、切腹して死んだ。その具足の背に、「村上源氏具平(ともひら)親王二十三代の孫淡河弾正定範」と書きつけた切れが縫いとられていた。

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黒田官兵衛ゆかりの史跡」カテゴリの記事

コメント

しずかさん
訪問とコメントありがとうございました。

播磨灘物語を再度読んでみました。
ほとんど本を読みませんのでなかなかすすみません。
しかし、身近にある実話ですので、面白いです。

三木合戦もいよいよ最後に近づいてきました。

合戦絵図に史跡に播磨灘物語と

当時を思い起こせる三拍子が揃った

素晴らしい記事ですね!

貴重な史跡の紹介をありがとうございます!

めりいさん
訪問とコメントありがとうございました。

地方ネタですが、三木合戦のなかでは、大ネタです。

淡河と言う地名も残っています。

歴史の表舞台に出ないけれど、立派に戦って敗れた武将も多いでしょうね。

淡河城ですか。城趾はきちんと整備されて石垣も残っていますね。

いい場所を紹介して下さって、ありがとうございました。

シネマさん
訪問とコメントありがとうございました。

徹夜ですか。
あまりの早さにびっくりです。
まだ夏休みあるんですか。
働いていると休みってうれしいでうね。
四国にもサファリパークありましたね。

昔は切腹ですね~

今日は最後の夏休みです~

僕らは動物探検隊富士サファリパークで大冒険観ますね~

70分と短いので1000万ですわ~

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