三木合戦包囲網 秀吉本陣
1578(天正6)年春、謀反を起こした三木城の別所長治を討つために秀吉は、三木城から2,5K離れた小高い平井山に本陣を設けた。ここは、三木城や兵の動きがよく見える場所です。
別所氏の三木城を攻めるのに半兵衛と官兵衛は、三木城包囲網作戦をとりました。三木城の周りに、秀吉本陣と各武将の砦(付城 つきじょう)を30くらい配置し、毛利からの兵糧の搬入を阻止する作戦です。これは「三木の干し殺し」と呼ばれました。
この戦いは、1578(天正6)年3月~1580(天正8)年1月17日までの1年10ケ月の戦いとなり、最後は、「●別所長治と一族の自害そして●城兵の助命」を条件に秀吉に降伏し、三木城は開城となりました。
付城配置図(つきじょう)
秀吉本陣
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めりいさん
訪問とコメントありがとうございました。
干し殺し作戦は、半兵衛、官兵衛の作戦かと思ったら
信長の得意な戦い方のようです。
本願寺も食料を断つ作戦をとりました。
味方の損害が少なく、敵の意欲を無くしていきますから
絶対に有利な戦い方でした。
投稿: ラメール | 2014.09.10 01:57
>毛利からの兵糧の搬入を阻止する作戦です。これは「三木の干し殺し」と呼ばれました。
三木城も鳥取城も同じ作戦でしたね。
斬り合う戦いか、干し殺しか・・・どちらも残酷ですね。
投稿: めりい | 2014.09.09 12:32
シネマさん&しずかさん
訪問とコメントありがとうございました。
この配置図を見れば、秀吉圧倒的勝利です。
私は、播州人で三木の近くが田舎ですが、織田・秀吉がどれだけ
強力だったかこれでわかります。
兵庫県のここ三木の戦いが、その後の日本の歴史を
造っていきました。
投稿: ラメール | 2014.09.07 12:00
付城配置図・・・これがあると、当時の戦の様子が
見えてくるようです。
三木城の記事は大作ですね!
投稿: しずか | 2014.09.07 10:11
秀吉本陣~強そうですね!
投稿: シネマ大好き娘 | 2014.09.07 03:19