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2014.09.21

三木合戦余話(有馬街道 金物神社)

湯の山街道

平安時代、姫路から三木を経由して有馬の湯に通じる道が整備され、山陽道を補う街道としても利用されていました。戦国時代に入り、この有馬の湯を知った秀吉は、合戦の負傷者をこの有馬の湯を汲んできて、野ぶろを造って療養させ、竹中半兵衛、黒田官兵衛なども、この湯の山街道を通って有馬へ行ったとも伝わっています。江戸時代には、参勤交代にも使われ、各地からの湯治客の往来で賑わいました。
(参考資料:三木市パンフレットなど)

湯の山街道本陣跡
本陣

名残の残る湯の山街道
街道

道路標識(有馬 大坂)
標識


金物神社
三木合戦で荒廃した三木の町を復興させるため、秀吉は、地子免許(じしめんきょ)・諸役免除を認める制札を出しました。これを元に三木の町は復興して、現在の金物の町(大工道具などの生産)に発展していきました。
※地子免許とは 町屋敷地にかかる地子(農村の年貢)を領主権力が免除すること
※制札(せいさつ)とは 一般に知らせる禁止・伝達事項を書いて,道路などに立てておく札


鳥居

神社


金物神社への地図は  こちらから


司馬遼太郎氏は「播磨灘物語 村重去」の中で、官兵衛が有馬温泉で治療したことを書いています、

(これが、人か)

と、織田信澄が言葉をうしなう程に、凄惨な姿だった。・・・・・・・・・・・・・・・・

「このあたりなら、有馬が近い。有馬の湯で湯治をすればどうか」

栗山善助もそのように考えていて、・・・・・・・・・・・・・・・・

有馬の湯では、官兵衛は池坊という坊に泊まった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・池坊といっても、亭主以下の家族が住む程度の小ぶりな百姓家とかわらない。

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黒田官兵衛ゆかりの史跡」カテゴリの記事

コメント

しずかさん
訪問とコメントありがとうございました。

有馬温泉は、遠方からこられて取材しておられました。
その記事の方がより有馬を表現しておられました。

昔の人は、そこまで移動するだけでも大変であったでしょうに、遠くまで湯治に出掛けたのですね。
有馬温泉は、武将の傷を癒すのに人気な温泉地だったのですね。

シネマさん
訪問とコメントありがとうございました。

新婚旅行は、ハワイでしょう。
有馬温泉の時代は、そうとう前のことですよ。

有馬温泉~

新婚旅行で、いこうかなあ~

めりいさん
訪問とコメントありがとうございました。

400年も前から有馬は、有名だったのです。
ここの湯を三木まで運んで、負傷兵の治療にも
使ったようです。
当時は、温泉に入るだけで、けっこう病気の
治ったようです。

「湯の山街道」ですか。官兵衛もこの道を通って有馬温泉に行ったのですね。

有岡城で、心も体もズタズタになった官兵衛ですが、さぞかし有馬温泉の湯治で癒やされたことでしょう。

現在の有馬温泉は高級なので、湯治なんてもってのほか、私には一泊すら出来ません(笑)

日帰り温泉が関の山です。

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