三木合戦余話(有馬街道 金物神社)
湯の山街道
平安時代、姫路から三木を経由して有馬の湯に通じる道が整備され、山陽道を補う街道としても利用されていました。戦国時代に入り、この有馬の湯を知った秀吉は、合戦の負傷者をこの有馬の湯を汲んできて、野ぶろを造って療養させ、竹中半兵衛、黒田官兵衛なども、この湯の山街道を通って有馬へ行ったとも伝わっています。江戸時代には、参勤交代にも使われ、各地からの湯治客の往来で賑わいました。
(参考資料:三木市パンフレットなど)
湯の山街道本陣跡
(参考資料:三木市パンフレットなど)
湯の山街道本陣跡
名残の残る湯の山街道
道路標識(有馬 大坂)
金物神社
三木合戦で荒廃した三木の町を復興させるため、秀吉は、地子免許(じしめんきょ)・諸役免除を認める制札を出しました。これを元に三木の町は復興して、現在の金物の町(大工道具などの生産)に発展していきました。
司馬遼太郎氏は「播磨灘物語 村重去」の中で、官兵衛が有馬温泉で治療したことを書いています、
(これが、人か)
と、織田信澄が言葉をうしなう程に、凄惨な姿だった。・・・・・・・・・・・・・・・・
「このあたりなら、有馬が近い。有馬の湯で湯治をすればどうか」
栗山善助もそのように考えていて、・・・・・・・・・・・・・・・・
有馬の湯では、官兵衛は池坊という坊に泊まった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・池坊といっても、亭主以下の家族が住む程度の小ぶりな百姓家とかわらない。
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しずかさん
訪問とコメントありがとうございました。
有馬温泉は、遠方からこられて取材しておられました。
その記事の方がより有馬を表現しておられました。
投稿: ラメール | 2014.09.23 00:44
昔の人は、そこまで移動するだけでも大変であったでしょうに、遠くまで湯治に出掛けたのですね。
有馬温泉は、武将の傷を癒すのに人気な温泉地だったのですね。
投稿: しずか | 2014.09.22 10:25
シネマさん
訪問とコメントありがとうございました。
新婚旅行は、ハワイでしょう。
有馬温泉の時代は、そうとう前のことですよ。
投稿: ラメール | 2014.09.22 09:22
有馬温泉~
新婚旅行で、いこうかなあ~
投稿: シネマ大好き娘 | 2014.09.22 03:32
めりいさん
訪問とコメントありがとうございました。
400年も前から有馬は、有名だったのです。
ここの湯を三木まで運んで、負傷兵の治療にも
使ったようです。
当時は、温泉に入るだけで、けっこう病気の
治ったようです。
投稿: ラメール | 2014.09.22 00:25
「湯の山街道」ですか。官兵衛もこの道を通って有馬温泉に行ったのですね。
有岡城で、心も体もズタズタになった官兵衛ですが、さぞかし有馬温泉の湯治で癒やされたことでしょう。
現在の有馬温泉は高級なので、湯治なんてもってのほか、私には一泊すら出来ません(笑)
日帰り温泉が関の山です。
投稿: めりい | 2014.09.21 21:22