淡河弾正の戦い
八幡森史跡公園
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湯の山街道
司馬遼太郎氏は「播磨灘物語 村重去」の中で、官兵衛が有馬温泉で治療したことを書いています、
(これが、人か)
と、織田信澄が言葉をうしなう程に、凄惨な姿だった。・・・・・・・・・・・・・・・・
「このあたりなら、有馬が近い。有馬の湯で湯治をすればどうか」
栗山善助もそのように考えていて、・・・・・・・・・・・・・・・・
有馬の湯では、官兵衛は池坊という坊に泊まった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・池坊といっても、亭主以下の家族が住む程度の小ぶりな百姓家とかわらない。
1578(天正6)年~1579(天正7)年は、官兵衛に人生最大の危機が起こった年でした。
1578(天正6)年秋 荒木村重が謀反をおこし、説得に官兵衛は有岡城に出向き、捕えられ牢に入れられました。
1579(天正7)年
6月13日 竹中半兵衛死去
9月2日 村重有岡城から消える
11月19日 有岡城開城
官兵衛救出される
幽閉されている間、死の危険があるなか、自分を信じて、考えを変えなかった。
有岡城
荒木村重と牢があった場所(推定)
牢屋(姫路大河ドラマ館)
有岡城の地図は こちらから
司馬遼太郎著「播磨灘物語 摂津伊丹」で、官兵衛が捕えられ牢に入れられた様子を次のように書いています。
官兵衛が有岡城の城門で番卒に名前と用向きを告げると、騒然となった。人数が出てきて官兵衛をとりまき、一人が背後から組みつき、他の者が官兵衛の腰の物をうばい、さらに別の者が縄を打った。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・牢というのは城の西南の隅にある小さな独立建物で、深いひさしが陽を遮っている。陽といえば前も左右も大竹やぶで、日中、陽がよほどたかくなっても、牢格子の中まで日光がおよんでこない。
牢に囚われた官兵衛について、「播磨灘物語 藤房」に次のように書かれています。
官兵衛は、なおも牢にいる。
牢というより、けものの檻にひとしいこのせまい空間は、たえず湿気ている。・・・・・・・・・・・・・雨がふれば牢内は三日も水気が去らず、ひざもとの土にみみずが這ったりする。
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格子越しに見あげる牢のひさしに、ぽつんと薄緑色の輝くような生命がふくらみはじめてきたのである。
藤の芽であった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・朝、起きるとまっさきに藤をながめた。芽はすこしずつふくらみ、、小さいながら花の房もついているようだった。それを終日、飽くことなく官兵衛はながめつづけているのである。
●村重出城、●官兵衛救出について、「村重の落去」で次のように書いています。
〔村重出城〕
9月2日の夜、掻き消えるように伊丹の城から落ちてしまったのである。
重臣にも洩らさず、土卒も捨てた。また妻子や、多くの妾たちにも何もいわず、それらを置き去りにした。
かれは、毛利圏へ逃げるつもりであったのだろう。
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伊丹有岡城の降伏開城というのは、敵味方とも混乱のなかでおこなわれた。
11月19日(天正7年)の朝のことである。・・・・・・・・・・・・・・・・・つまり、尼崎にいる村重に対し、
「尼崎と花隈を開城せよ。でなければ、人質を残らず殺す」
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尼崎で見る落日というのは、壮観というほかない。はるか明石海峡の方角にあたって、淡路の島影は紫に染まり、沖が銀色にかがやいて、そのなかを熟れきった太陽が音をたてるように落ちてゆくのである。
毛利は来援しなかった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・村重はたまりかねて、みずから毛利へ行きその兵をひきずって来ようとした、というのである。
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〔官兵衛救出〕
栗山は錠をこわしつつ、
「殿」
と、薄暗い牢内へ声をかけた。・・・・・・・・・・・・・・・
官兵衛は、髪は抜け落ち、四肢はミイラのように硬くなっていて、体の自由がまったくきかなかった。栗山はともかくも官兵衛を抱きあげ、大力の男の背に縛りつけた。
そのあといったん大手門のそとに出した。
秀吉の中国攻めの時、信長が敵対関係にあった毛利や石山本願寺の海上交通を遮断するために荒木村重(伊丹城城主)に命じて建てられたと言われています。しかし、1580(天正8)年12月、村重が毛利方に通じていると信長に疑いをかけられ、信長の腹心である池田輝政によって攻撃され陥落しました。
当時は、海に面して建てられていましたが、今では、その場所も神戸の繁華街:JR元町駅の北側になってしまいました。そして、城跡は市営駐車場です。
天守閣跡の石垣(現在は浄土宗福徳寺)
浄土宗福徳寺門前にある石碑
石垣の中は駐車場となっています
花隈城の地図は こちらから
司馬遼太郎氏は、「播磨灘物語 村重」で花隈城について次のように書いています。
毛利が、荒木村重を手に入れたかに見られる現象は、もう一つある。
このころ村重の支城の一つである摂津花隈城が、毛利方の不意の襲撃であっけなく陥落して、毛利の手に入ってしまったことである。
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毛利・雑賀軍がふたたび海を越えて、花隈城へ押しかけたのである。花隈城は、いまの地理でいえば、神戸市にある。花隈城は新城であった。
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花隈城は、織田氏の対本願寺・毛利戦略からうまれた。大坂石山の本願寺に対し、毛利氏が補給するのを、花隈城でくいとめるためであり、信長が村重にその築城を命じたものであった。
秀吉の軍師として活躍し、官兵衛と両兵衛と言われた天才戦略家:竹中半兵衛は、1579(天正7)年6月13日に三木合戦の陣中で病気で亡くなりました。。享年36。死因は肺の病気とされています。
竹中半兵衛の陣屋は、秀吉本陣の近くにあります
竹中半兵衛の墓
(平井山陣屋の近くにあります)
竹中半兵衛墓の地図は こちら
竹中半兵衛と官兵衛のつながりを、司馬遼太郎氏は、「播磨灘物語 村重の落去」の中で、つぎのように書いています。
竹中半兵衛は、官兵衛がまだ獄中にいた暑い盛りの6月13日に播州の陣中で死んでいるのである。
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たかしに、半兵衛は生涯の恩人であるには間違いない。信長が官兵衛の嫡子松寿を殺せといったとき、たれもが当然ながら、信長という専制者の命を奉ずる。保身のためには、命令に遵(したが)うしかない。半兵衛のほかのたれが、松寿をかくまってくれるであろう。
「めずらしい男だった」
官兵衛はおもわざるをえない。
1578(天正6)年春、謀反を起こした三木城の別所長治を討つために秀吉は、三木城から2,5K離れた小高い平井山に本陣を設けた。ここは、三木城や兵の動きがよく見える場所です。
別所氏の三木城を攻めるのに半兵衛と官兵衛は、三木城包囲網作戦をとりました。三木城の周りに、秀吉本陣と各武将の砦(付城 つきじょう)を30くらい配置し、毛利からの兵糧の搬入を阻止する作戦です。これは「三木の干し殺し」と呼ばれました。
この戦いは、1578(天正6)年3月~1580(天正8)年1月17日までの1年10ケ月の戦いとなり、最後は、「●別所長治と一族の自害そして●城兵の助命」を条件に秀吉に降伏し、三木城は開城となりました。
付城配置図(つきじょう)
秀吉本陣
川と山に囲まれた三木城は簡単には攻め落とせないと分かった秀吉は、二重三重と兵を配置して三木城を包囲して、兵糧攻めの作戦にでた。官兵衛軍もこの包囲網の中に参加していました。又、後に反旗を翻す荒木村重も秀吉本陣の後ろに陣を敷いていました。
しかし、毛利方から食料が運び込まれ、別所方の気勢は衰えない。
長期戦を覚悟した秀吉は、茶会の茶人:津田宗及を招き、1578(天正6)年10月15日に茶会を開きました。そして、武将たちを集めて酒を振る舞い、ストレス解消と士気の鼓舞に役立てました。(現在の暦では12月の満月の夜)
明石からの道を封鎖するために作った
明石道付城
秀吉本陣地図は こちらから
司馬遼太郎氏は、「播磨灘物語 秋浅く」で次のように書いています。
秀吉と官兵衛および竹中半兵衛がやったこの攻城法は、あるいは独創的なものだったといわねばならない。
三木城のまわりに、輪をえがくようにして長大な野戦築城をつくったのである。柵を植え、ところどころ複柵にし、要所要所に櫓をあげ、それらの延長が四里以上におよんだというから、三木城そのものより大きな土木工事だったといっていい。