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2014.08.29

三木城

三木合戦は、1578(天正6)年3月の加古川評定で秀吉との意見の違いから、別所氏は毛利に味方することになり、それに、激怒した信長は、三木城攻めを命じました。平井山に本陣を構えた秀吉は、三木城を囲むように付城を築き、毛利からの兵糧の搬入を断ち兵糧攻めにしました。これを「三木の干し殺し」作戦と言います。そして、1578(天正6)年3月に始まった別所対織田の戦いも、1580(天正8)年1月に三木城の落城で織田の勝利となりました。1年10ヶ月の戦いでした。

この時、荒木村重も反旗を翻し、それを説得に行った官兵衛は、1578(天正6)年10月頃~1579(天正7)年10月までの1年間、有岡城に幽閉されていました。



城配置図



三木城(現在建物は残っていません)
城絵




城主:別所長治公
長治馬
長治板


城の遺跡として残っているカンカン井戸
井戸
井戸板

本丸あった場所
天守跡

旗

城北側には、美嚢川(みのがわ)が流れ、神戸電鉄が走っています。
電鉄


長治公辞世の歌(享年22歳)
長治辞世
今はただ うらみもあらじ諸人の 
いのちにかわる 我身とおもえば

別所一族辞世の歌
一族辞世



三木城地図は こちらから



司馬遼太郎氏は「播磨灘物語 三木城」で、城の情景を次のように書いています。

丹波高原というのは丹波一国でおわらず、山河はひくくなりつつも西へのび、播州の東部にまで山波の勢いがおよんでいる。それがやがて平野になったあたりに、別所氏の三木城がある。

その三木の野に、釜山(かまやま)とよばれる丘があり、文字どおり釜を伏せたようなかたちをしている。三木城は、その釜山にあり、城へのぼると美嚢川(みのがわ)が釜山をめぐって流れ、天然の外堀をなしている。

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黒田官兵衛ゆかりの史跡」カテゴリの記事

コメント

そば打ちおじさん
訪問とコメントありがとうございました。

大河官兵衛を見ておられる方なら、
三木城を落としたのが秀吉の天下取りへの大きなポイントに
なったところですので、面白いと思います。
お城は跡だけで、建物は残っていません。

竹田城は、ぜひ行ってみたいところです。

わたしも一度いってみます。昨年兵庫のブロガーがあったけど、ここも行けばよかたかな。でも竹田の城もいけてよかったです。

しずかさん
訪問とコメントありがとうございました。

三木城主長治公は、武士として、城主としての覚悟ができていた人物です。

辞世の歌
今はただ うらみもあらじ諸人の いのちにかわる 我身とおもえば

恨みもしないで、多くの人の命をすくうために差し出します

あっぱれな覚悟のあった人でした。

機会があればぜひ訪ねてください。

三木城の史跡めぐりも、一度行ってみたいと思いつつ
まだ実現できていません。
若くして亡くなった別所長治公の騎馬像をこの目で
見てみたいです。

めりいさん
訪問とコメントありがとうございました。

三木城は、秀吉、官兵衛の包囲作戦で食べるものが
無くなり、毛利からの食糧搬入も断たれ、
ついに白旗をあげました。

城主長治の首と交換で城兵を救いました。

別所長治公は、23歳で自害されたのですね。
妻子ともに亡くなったとか。

戦国時代にはよくある話とは言え、お気の毒です。

シネマさん
訪問とコメントありがとうございました。

敗れたとは言え、地元では、別所長治公は人気があります。
長治が最後、切腹で終わらせた三木合戦、今でも語り
継がれています。

まだ連休中ですか。

りっぱな、石像ですね!

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