三木城
三木合戦は、1578(天正6)年3月の加古川評定で秀吉との意見の違いから、別所氏は毛利に味方することになり、それに、激怒した信長は、三木城攻めを命じました。平井山に本陣を構えた秀吉は、三木城を囲むように付城を築き、毛利からの兵糧の搬入を断ち兵糧攻めにしました。これを「三木の干し殺し」作戦と言います。そして、1578(天正6)年3月に始まった別所対織田の戦いも、1580(天正8)年1月に三木城の落城で織田の勝利となりました。1年10ヶ月の戦いでした。
この時、荒木村重も反旗を翻し、それを説得に行った官兵衛は、1578(天正6)年10月頃~1579(天正7)年10月までの1年間、有岡城に幽閉されていました。
城配置図
この時、荒木村重も反旗を翻し、それを説得に行った官兵衛は、1578(天正6)年10月頃~1579(天正7)年10月までの1年間、有岡城に幽閉されていました。
城配置図
三木城(現在建物は残っていません)
城主:別所長治公
城の遺跡として残っているカンカン井戸
本丸あった場所
城北側には、美嚢川(みのがわ)が流れ、神戸電鉄が走っています。
長治公辞世の歌(享年22歳)
今はただ うらみもあらじ諸人の
いのちにかわる 我身とおもえば
別所一族辞世の歌
別所一族辞世の歌
三木城地図は こちらから
司馬遼太郎氏は「播磨灘物語 三木城」で、城の情景を次のように書いています。
丹波高原というのは丹波一国でおわらず、山河はひくくなりつつも西へのび、播州の東部にまで山波の勢いがおよんでいる。それがやがて平野になったあたりに、別所氏の三木城がある。
その三木の野に、釜山(かまやま)とよばれる丘があり、文字どおり釜を伏せたようなかたちをしている。三木城は、その釜山にあり、城へのぼると美嚢川(みのがわ)が釜山をめぐって流れ、天然の外堀をなしている。
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そば打ちおじさん
訪問とコメントありがとうございました。
大河官兵衛を見ておられる方なら、
三木城を落としたのが秀吉の天下取りへの大きなポイントに
なったところですので、面白いと思います。
お城は跡だけで、建物は残っていません。
竹田城は、ぜひ行ってみたいところです。
投稿: ラメール | 2014.09.03 01:19
わたしも一度いってみます。昨年兵庫のブロガーがあったけど、ここも行けばよかたかな。でも竹田の城もいけてよかったです。
投稿: そば打ちおじさん | 2014.09.02 21:44
しずかさん
訪問とコメントありがとうございました。
三木城主長治公は、武士として、城主としての覚悟ができていた人物です。
辞世の歌
今はただ うらみもあらじ諸人の いのちにかわる 我身とおもえば
恨みもしないで、多くの人の命をすくうために差し出します
あっぱれな覚悟のあった人でした。
機会があればぜひ訪ねてください。
投稿: ラメール | 2014.09.02 03:09
三木城の史跡めぐりも、一度行ってみたいと思いつつ
まだ実現できていません。
若くして亡くなった別所長治公の騎馬像をこの目で
見てみたいです。
投稿: しずか | 2014.09.02 01:53
めりいさん
訪問とコメントありがとうございました。
三木城は、秀吉、官兵衛の包囲作戦で食べるものが
無くなり、毛利からの食糧搬入も断たれ、
ついに白旗をあげました。
城主長治の首と交換で城兵を救いました。
投稿: ラメール | 2014.08.31 02:41
別所長治公は、23歳で自害されたのですね。
妻子ともに亡くなったとか。
戦国時代にはよくある話とは言え、お気の毒です。
投稿: めりい | 2014.08.30 22:08
シネマさん
訪問とコメントありがとうございました。
敗れたとは言え、地元では、別所長治公は人気があります。
長治が最後、切腹で終わらせた三木合戦、今でも語り
継がれています。
まだ連休中ですか。
投稿: ラメール | 2014.08.30 11:03
りっぱな、石像ですね!
投稿: シネマ大好き娘 | 2014.08.30 04:16