福原城(佐用城)
播磨に入った秀吉は、地元の豪族を従えるために、毛利の最前線である福原城と上月城を攻めました。この時は、三木城主:別所氏も他の豪族も、表向き信長側でしたが、内心、毛利の勝利を願っていました。
秀吉の播磨平定戦で、毛利方の最前線である福原城(作用城)を、 1577(天正5)年、官兵衛と半兵衛とで一日で攻め落としました。地元の伝承では、福原則尚は戦死せず、城に火を放って高尾山福円寺まで逃れ、12月1日ここで自害して果てたと伝えています(『三日月町史』2)。官兵衛は、攻めるとき孫子の兵法「囲師必けつ(いしのひっけつ)」を使い、三方を囲み、後ろ一方を開けて逃げ道を作っておいた。そして、そこから逃げようとした者、城内に居た者、すべて切ったようです。落城時点で、城は廃城となり、地元の人によって、城主福原則尚を祀るために、土塁上に霊社を建立しています。頭脳明晰であったため、今でも参拝する人が多くいます。
城の建物はありません。霊社周りは畑地になっていて、土塁、堀と思われる跡が残っています。
城配置図
福原城跡(霊社があります)
霊社
福原則尚辞世の歌
「死ぬなれば花の下にと思いしに 師走の花の咲くべくもなく」
死ぬのは、花の下がいいと思っていたが、師走に死んだのでは花が咲くはずもない
土塁
城跡入口道路
(中国自動車道佐用ICから南に 看板があります)
福原城への地図は こちらから
司馬遼太郎氏は、「播磨灘物語 半兵衛」で次のように書いています。
『秀吉の姫路入りによって、播州の諸豪族はごく一時的な現象ながら、織田氏に属したかのようである。
公然とこれに反した城が、二つあった。
佐用郡上月城主 上月蔵人政範(くらんどまさのり)
佐用郡佐用城主 福原主膳助就(しゅぜんすけなり)
「とるにも足らぬ二本の虫歯であるが、これをあざやかに抜いてみせれば、播州の諸豪族も粛然(しゅくぜん)として織田家を恃(たの)む気になるにちがいない」と秀吉は考えている。
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〈福原城攻め〉
城の三方を、かこんだ。
しかし、一方は空けておいた。空けておけば城兵は死守する気が失せ、すぐに逃げ出すだろうと思ったのである。このことは「孫子」にもある。』
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シネマさん
再訪問、ありがとう。
給料もらって、連休で、彼氏と海外旅行なんて
できたらなんて夢物語ですよね。
現実は、厳しいです。
若者は、夢と希望と若さがある。
頑張ってください。
投稿: ラメール | 2014.08.21 10:53
シネマ、時給なんで給料もらえません><
投稿: シネマ大好き娘 | 2014.08.21 06:08
しずかさん
訪問とコメントありがとうございました。
共同ブログの記事を私のブログにももってきました。
孫子の兵法を使ったのは、官兵衛がよく勉強していた
証拠です。
随願寺の僧(叔父)に教えてもらったようです。
投稿: ラメール | 2014.08.21 01:57
ここは、なかなか行けないところなので、ラメールさんの記事で行った気分になっておきます。
一方は空けておく策は、数々の戦で成功していますね。
投稿: しずか | 2014.08.20 14:40
シネマさん
連休中の訪問とコメントありがとうございました。
この場合の花は、サクラでしょう。
師走にには、桜は咲きません。
昔の人は、死ぬ前にいい歌を作るものですね。
前から準備しているのでしょうか。
休みで給料もらえて彼氏とデート、これ最高ですね。
投稿: ラメール | 2014.08.20 11:15
師走に死んだら花は咲かないのですか?!
今日はお休み~~
彼氏とフラメンコディナー楽しんできますね!!
投稿: シネマ大好き娘 | 2014.08.20 03:30