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2014.08.20

福原城(佐用城)

播磨に入った秀吉は、地元の豪族を従えるために、毛利の最前線である福原城と上月城を攻めました。この時は、三木城主:別所氏も他の豪族も、表向き信長側でしたが、内心、毛利の勝利を願っていました。

 

秀吉の播磨平定戦で、毛利方の最前線である福原城(作用城)を、 1577(天正5)年、官兵衛と半兵衛とで一日で攻め落としました。地元の伝承では、福原則尚は戦死せず、城に火を放って高尾山福円寺まで逃れ、12月1日ここで自害して果てたと伝えています(『三日月町史』2)。官兵衛は、攻めるとき孫子の兵法「囲師必けつ(いしのひっけつ)」を使い、三方を囲み、後ろ一方を開けて逃げ道を作っておいた。そして、そこから逃げようとした者、城内に居た者、すべて切ったようです。落城時点で、城は廃城となり、地元の人によって、城主福原則尚を祀るために、土塁上に霊社を建立しています。頭脳明晰であったため、今でも参拝する人が多くいます。

城の建物はありません。霊社周りは畑地になっていて、土塁、堀と思われる跡が残っています。

 

城配置図
城配置

 

福原城跡(霊社があります)
霊社全

霊社
霊社

 

 

福原則尚辞世の歌
「死ぬなれば花の下にと思いしに 師走の花の咲くべくもなく」
死ぬのは、花の下がいいと思っていたが、師走に死んだのでは花が咲くはずもない
 
辞世の句




福原城由来




土塁
霊社うら




城跡入口道路
(中国自動車道佐用ICから南に 看板があります)
入口




福原城への地図は こちらから

 

司馬遼太郎氏は、「播磨灘物語 半兵衛」で次のように書いています。

 

『秀吉の姫路入りによって、播州の諸豪族はごく一時的な現象ながら、織田氏に属したかのようである。

公然とこれに反した城が、二つあった。
佐用郡上月城主 上月蔵人政範(くらんどまさのり)
佐用郡佐用城主 福原主膳助就(しゅぜんすけなり)

「とるにも足らぬ二本の虫歯であるが、これをあざやかに抜いてみせれば、播州の諸豪族も粛然(しゅくぜん)として織田家を恃(たの)む気になるにちがいない」と秀吉は考えている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〈福原城攻め〉
城の三方を、かこんだ。

しかし、一方は空けておいた。空けておけば城兵は死守する気が失せ、すぐに逃げ出すだろうと思ったのである。このことは「孫子」にもある。

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黒田官兵衛ゆかりの史跡」カテゴリの記事

コメント

シネマさん
再訪問、ありがとう。

給料もらって、連休で、彼氏と海外旅行なんて
できたらなんて夢物語ですよね。
現実は、厳しいです。

若者は、夢と希望と若さがある。
頑張ってください。

シネマ、時給なんで給料もらえません><

しずかさん
訪問とコメントありがとうございました。

共同ブログの記事を私のブログにももってきました。

孫子の兵法を使ったのは、官兵衛がよく勉強していた
証拠です。
随願寺の僧(叔父)に教えてもらったようです。

ここは、なかなか行けないところなので、ラメールさんの記事で行った気分になっておきます。

一方は空けておく策は、数々の戦で成功していますね。

シネマさん
連休中の訪問とコメントありがとうございました。

この場合の花は、サクラでしょう。
師走にには、桜は咲きません。
昔の人は、死ぬ前にいい歌を作るものですね。
前から準備しているのでしょうか。

休みで給料もらえて彼氏とデート、これ最高ですね。

師走に死んだら花は咲かないのですか?!

今日はお休み~~

彼氏とフラメンコディナー楽しんできますね!!

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