上月城
福原城を落とした官兵衛は、翌日、約3K南に下がった上月城を攻めました。上月城主:赤松政範(まさのり)の妻:力(リキ 酒井若菜)は、官兵衛の妻:光(テル)の姉です。官兵衛は、戦況は上月城にとって不利な状況であるから降伏するように説得するが聞き入れられず戦いとなりました。秀吉軍は、1577(天正5)年12月3日に城内に攻め込み、兵の首をすべてはね、女、子供約200人を磔(はりつけ)と串刺しにして毛利方に見えるように国境に並べる、恐ろしい結末を迎えました。
官兵衛は、光の姉:力と子供の助命を秀吉に嘆願して許されました。 後に、力は尼となり、子供は、光が育てました。この姉妹は、志方城主:櫛橋(くしはし)左京亮の娘で播磨の美人姉妹として有名だったと思われます。
当時の城の配置図
上月城
登城口
城図
上月歴史資料館(城登り口の前にあります)
その後、上月城には山陰の名族・尼子勝久、山中鹿助らの尼子勢が入りますが、1578(天正6)年4月、三万にも及ぶ毛利の大群に攻められ城は包囲されます。援軍に駆けつけた羽柴秀吉・荒木村重ら一万の織田勢は高倉山に陣を張り、対峙するも付け入ることもできず、時を同じくして反旗を翻した別所長治を討つため播州・三木城へと向かうこととなりました。織田勢の撤退により、見捨てられた尼子・山中鹿助が守る上月城は7月に落城します。信長・秀吉軍と西国の覇者毛利氏とにはさまれ、歴史の波に翻弄された上月城は、尼子氏の最期と共に歴史の表舞台に再び現れることはありませんでした。
(上月城案内板より)
慰霊碑とその先の建物は歴史資料館(駐車場)
左:尼子・右:山中鹿野助碑
尼子碑
近くにあった碑 維新の志士:立石孫一郎
尊攘派志士 名は維敬,通称:恵吉,敬之介(大橋)。播磨国佐用郡上月村(兵庫県上月町)の生まれ〔1832年2月(天保3)〕。1865(慶応元)年、立石孫一郎と改名し長州藩南奇兵隊に入る。尊攘討幕を掲げて倉敷代官所および備中浅尾陣屋を襲撃した(倉敷浅尾騒動)。長州藩により銃殺された。 1866年6月(慶応2)死亡
上月城地図は こちらから
司馬遼太郎氏は、「播磨灘物語 半兵衛」の中で上月城攻めについてこのように書いています。
【城攻めの時、官兵衛の隊は敵の先鋒と激闘し、大手門まで押し詰めた城方はすぐに城内に入り、代って、疲労していない二番手が出て、疲れてしまっている官兵衛の隊を襲った。さすがに官兵衛もその隊も苦戦におちいったが、「相婿」という言葉の手前、退却できなかった。山上からこれを見ていた秀吉が、
「官兵衛を討たすな」と自分の本隊を繰り出したために官兵衛は救われ、城方は逆に破れた。その夜、城主上月政範は切腹し、城兵は官兵衛がわざと空けておいた退き口から落ち延びている。
※相婿:上月城城主の妻と官兵衛の妻は、姉妹】
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しずかさん
訪問とコメントありがとうございました。
戦国時代は、こんな話、いっぱいありますね。
信長のやり方なんでしょう。
ここまでしないと天下はとれない。
投稿: ラメール | 2014.08.23 02:23
>秀吉軍は、1577(天正5)年12月3日に城内に攻め込み、兵の首をすべてはね、女、子供約200人を磔(はりつけ)と串刺しにして毛利方に見えるように国境に並べる、恐ろしい結末を迎えました
この話は恐ろし過ぎます。
こんな時代に生まれないで良かったわ(-_-;)
投稿: しずか | 2014.08.23 01:32
シネマさん
訪問とコメントありがとうございました。
山登り好きですか。
私は、苦手ですので、上には登りませんでした。
投稿: ラメール | 2014.08.22 11:03
上月城~
いってみたいですね~
投稿: シネマ大好き娘 | 2014.08.22 04:06