福原、上月城を攻め落として播磨を平定した秀吉は、いよいよ毛利との対決に備えて、播磨の豪族を加古川城(称名寺)に集め、評定を開きました〔1577年(天正5)〕。 しかし、播磨の盟主:三木城主:別所長治は、毛利に付くと言い、御着城主:小寺政職(まさたか)の家臣で志方城主:櫛橋左京進も同調した。
官兵衛の懸命な説得にもかかわらず、三木が毛利についたことで、播磨の多くの豪族は同調して官兵衛のもとを離れます。そして、またまた、上月合戦で姉妹が対決したように、今回は、官兵衛の妻:光対兄:左京進の兄妹対決となりました。
加古川城の配置図
称名寺門(しょうみょうじ)
本堂
城主:糟谷(内善正)武則(12代加古川城主)は、官兵衛の推挙で秀吉に仕え、小姓頭となり、三木合戦で活躍、賤ヶ岳合戦では、一番槍に武名を残しました。
播磨鑑によると、加古川城は、加古川村にあって、称名寺一帯(約90M四方)が城であったと書かれています。 今は、周りいったいは住宅地、学校が建っていて、城跡の痕跡はありません。
境内の巨大な
イチョウの木
七騎供養塔
1820(文政3)年に建立された、頼山陽筆によるものです
南北朝時代、出雲守」塩治判官高貞が加古川で足利尊氏軍に襲われた際に、弟など郎党七名が主君を守ろうと戦って全員が討死した、その供養のために建てられたものです。
七名の名前
碑文
頼襄は頼山陽の著名
鶴林寺
加古川地域の名刹で、官兵衛時代、僧兵を多く抱えたお寺で、豊臣に味方したため戦火をまぬかれました。官兵衛が福岡藩主になったとき、祈祷をしていただいたお礼に、約1億円に相当する寄付をしています。
加古川城(称名寺)の地図は こちらから
(鶴林寺はここから東南に約2K)
司馬遼太郎氏は、「播磨灘物語 加古川評定」で次のように書いています。
加古川は、明石から海岸線を西へ5里のところにある。
播州の海岸はほぼ白沙で、とくに高砂や相生の松原で代表されるように、海岸と陸のあいだを松林が美しく縁どっているが、加古川の浜も例外でない。
川が印南野をうるおしつつ、海へそそぐ。この川が加古川とよばれたり、印南川とよばれたりする。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「敵に向かって大いに槍を働かせ候え。しかしながら陣の立てかた、軍の行りょう、戦のかけひきは、大将である自分がそれを仕る。おのおのは、わが指図のとおり動いて下さればよい」と秀吉は言った。・・・・・・・
別所賀相、三宅治忠は三木に帰城し、
「羽柴はわれわれを侮辱した。・・・・こちたき言葉よ」
と、・・・・・・・・・・・・・秀吉の言葉は、このように伝えられることによって、別所の重臣たちを戦いへ(それも織田氏への)踏みきらせた、と「別所長治記」にはある。