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2014年7月

2014.07.31

平泉の旅 高館義経堂

平泉の旅の最後の記事です。今回の旅で一番行きたかった所がここ義経終焉の地:高舘義経堂(たかだちぎけいどう)です。

 

源平の史跡を訪ねるブログを書きはじめた最初の記事が、義経が鵯越の逆落としで一気に平家の本陣を攻め勝利し、平家の若武者:敦盛の首を確認するために洗った池のそばの松に腰掛けました、「その池と松のある須磨寺(兵庫県神戸市)」の記事でした。その時に、義経終焉の地:高館義経堂に行ってみたいと思ったのがやっと実現しました。

義経の絶頂期が須磨寺であって、終焉の地がここ高舘義経堂です。

 

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1189(文治5)年、義経は、頼朝の圧迫に耐えかねた秀衡の子:4代泰衡の急襲にあい、この地で妻子を殺害し、自害したと言われています。この義経堂は、1683(天和3)年に仙台藩主:4代伊達網村公が建立しました。

 

 

義経像
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高舘義経堂
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義経主従供養塔
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階段を登ったところが義経堂です。
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義経堂から見た北上川と束稲山(たばしねやま)
束稲山とは経塚山音羽山束稲山の三つの山の総称。
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この階段を登って行くと眼下に北上川の見える所に出ます。

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義経は、死なない、北の方に行って再起の時期を待った北行伝説が語り継がれています。
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夏草や 兵共が 夢の跡(芭蕉)
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頼三樹三郎詩碑
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源平の史跡を訪ねて 須磨寺 義経腰掛松

 

 

 

 

 

 

2014.07.29

平泉の旅 義経妻子の墓

義経妻子の墓は、金鶏山麓千手院入口から入った所にあります。毛越寺からタクシーで行き、待機してもらい、参拝した後、中尊寺まで行ってもらいました。


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義経妻子の墓
死亡時の年齢は、北の方22歳、娘4歳24


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義経の正室は、北の方(郷御前)と呼ばれ、武蔵国(川越市)の豪族:河越重頼の娘。1184(元歴元)年、頼朝の命により義経(26歳)に嫁ぎ(17歳)、頼朝と義経が対立したのちも義経の逃避行に従い、最期を共にした女性とされる。

 

千手院
藤原三代の位牌と秀衡の木造が安置されています。
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2014.07.27

平泉の旅 弁慶堂 弁慶の墓

義経が頼朝に追われて、最後に頼ったのが藤原三代秀衡ですが、秀衡が亡くなり、四代泰衡が頼朝の圧力に屈して、泰衡が義経を自害に追い込み、その後、泰衡が頼朝との戦いに敗れ、藤原氏も滅亡〔1189年(文治5)〕しました。

 

義経と最後まで戦った弁慶に関係のあるお堂が中尊寺にあり、お墓が中尊寺入口にあります。

 

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 武蔵坊弁慶は、主君義経を守らんと、衣川館の前で仁王立ちして全身に矢を受け、立ったまま亡くなりました。
 

伝弁慶の墓
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弁慶堂
義経と弁慶の木造が安置されています。
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2014.07.25

平泉の旅 前9年後三年

「前九年後三年の役 衣川古戦場跡碑」は、中尊寺弁慶堂の近くにあります。

 

 

 

 

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平泉駅から中尊寺までは、約2Kです。

 

 

 

 

前九年の役:平安末期(1051年~1062年),陸奥の豪族安倍氏らの反乱を源頼義・義家らが平定した戦い。

 

 

後三年の役:平安後期(1083年から1087年)に,奥羽の豪族清原一族の相続争いを,陸奥守として下向した源義家が清原清衡(=藤原清衡)とともに,平定した戦い。これにより藤原清衡は平泉における藤原四代の基礎を築いた。

 

 

 

 

前九年 後三年の役 衣川古戦場跡碑
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東物見台
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2014.07.23

平泉の旅 卯の花清水

高舘義経堂(たかだて)から少し下がったところにあります。

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卯の花清水には、きれいな水が湧き出ており、元禄2年に芭蕉と一緒に平泉を訪ねた曽良の句碑があります。

「卯の花に 兼房みゆる 白毛かな」

義経の忠臣の兼房が高舘(たかだて)落城の折、白髪を振り乱しながら奮戦し、遂に死を遂げた様を、白く咲き乱れる卯の花に例えて読んだ句です。

 

卯の花清水
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この地に湧水があって、卯の花清水と命名していましたが、後年水が枯れ、今では、水道水を使っています。

 

曽良の句碑
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2014.07.21

平泉の旅 柳の御所遺跡

柳之御所遺跡(やなぎのごしょいせき)は、無量光院の東隣にあります。

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藤原清衡、基衡の屋敷跡と伝えられていた場所ですが、発掘調査の結果、多くの遺構、遺跡が発見されたことから、「吾妻鏡」に書かれている平泉館(政庁)の可能性が高いとされています。現在は、史跡公園として公開されています。

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資料館
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2014.07.20

平泉の旅 無量光院跡

無量光院跡は、平泉駅北へ約600mのところにあります。

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三代秀衡が、宇治平等院の鳳凰堂を模して建立した寺院跡。建物の中心線は西の金鶏山と結ばれており、その稜線上の沈む夕陽に極楽浄土をイメージして造られたようです。
(参考資料:岩手県経営企画部発行パンフレット)

 

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調査の結果、大きさは、平等院鳳凰堂より大きく、平等院を超えようとしたことが想像できます。

2014.07.19

平泉の旅 観自在王院跡

観自在王院跡(かんじざいおういんあと)は、毛越寺の東隣にあります。



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二代基衡の妻が建立したと伝えられており、極楽浄土を表現した庭園と考えられています。



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2014.07.15

平泉の旅 中尊寺(2)

中尊寺の金色堂など一部の建物を前回紹介しましたが、それ以外の建物を紹介します。

讃衛蔵(さんこうぞう)
3000点以上の国宝、重要文化財を収蔵し、それらを展示室で見ることができます。
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経蔵(きょうぞう)
金色堂のそばに建つ経蔵は、国宝:中尊寺経(きょう)を納めていたお堂。平安時代に建立。
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大日堂
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西谷坊
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梵鐘
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阿弥陀堂
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弁財天
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峯薬師堂
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薬師堂
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八幡堂
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2014.07.13

平泉の旅 中尊寺(1)

今から900余年昔の平安時代、奥州藤原氏によって築かれた平泉、初代藤原清衡(きよひら)は、恒久平和を願って中尊寺を建立、二代基衡(もとひら)は、大伽藍や浄土庭園を配した毛越寺を造るなど仏都づくりに努め、三代秀衡(ひでひら)は、無量光院などが建つ仏教都市を出現させ、さらに柳の御所などを整備して行政都市の機能を高め、「北方の王者」として絶頂期を迎えました。そのころ、都では、源氏と平家が中央の権力を争い、平家を倒した義経をかばった四代泰衡(やすひら)は、源頼朝によって滅ぼされてしまい、栄華をほこった藤原氏も滅亡してしまいました。そんな平泉を訪ねました。
(参考資料:パンフレット岩手宝国)

平泉駅
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中尊寺は、駅から約2Kのところにあります。

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金色堂
1124(天治元)年の造立。ご本尊は阿弥陀如来、堂全体を金箔で覆い、極楽浄土を表しています。金色堂は覆われています。中央に初代清衡公、左に二代基衡公、右に三代秀衡公の御遺体と四代泰衡公の首級が納められています。
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旧覆堂
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本堂

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芭蕉句碑
夏草や 兵どもが 夢の跡
(なつくさや つわものどもが ゆめのあと

五月雨の 降のこしてや 光堂
(さみだれの ふりのこしてや ひかりどう)
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1689(元禄2)年5月(新暦6月)に、芭蕉(46)と曽良(41)は奥の細道の旅で平泉を訪れています。



中尊寺の地図は こちら

2014.07.06

三陸鉄道(南リアス線 盛~釜石)

三陸鉄道南リアス線(盛~釜石)が開通したので乗車しました。
三陸鉄道北リアス線(宮古~久慈)は、NHK朝ドラ{あまちゃん」に登場して有名になりました。

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三陸鉄道南リアス線(クリック拡大)
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JR & 三陸鉄道 盛駅
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三陸鉄道盛駅
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クエート国からのご支援に感謝します。

三陸鉄道南リアス線終点

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釜石は鉄の街です
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釜石~花巻~北上へと乗車

北上川
三陸海岸の旅は、終わりました。
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北上夜曲
匂い優しい白百合の 濡れているよなあの瞳
想い出すのは 想い出すのは
北上河原の月の夜














2014.07.04

奇跡の一本松

東北大震災の復興状況を見るために選んだ場所が奇跡の一本松です。震災状況を放送するのによく登場しました。

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一ノ関から気仙沼
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気仙沼からバスで「奇跡の一本松」まで行きます。
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整地中の荒野にけなげにすくっと立っていました。
江戸時代から植えられ、高田松原として7万本も松林も津波で流されこの松一本(27M)だけが残りました。しかし、生き続けることは難しく、震災のシンボルとして人工的に補強されたたずんでいます。後ろのつぶれた建物は、ユースホステルです。
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津波で襲われた場所は、以前の面影は無く、今は整地され、一本松だけが頑張って立っています。
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被災松
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道の駅跡と石川啄木碑4_3

頬につたふ なみだのごはず 
一握の砂を示しし人を忘れず

啄木「一握の砂」より
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石川啄木も訪れていた高田松原
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整地するために近くの山から土を運ぶコンベアがタコの足のように伸びています。盛り土をして高くするのか切り崩した山に住宅を建てるのか工事は進んでいますが、震災による死者:15887名(行方不明者:2615)(2014年6月10日時点)の命は帰ってくることはありません。

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港町ブルース(森進一)

流す涙で 割る酒は だました男の 味がする
あなたの影を ひきずりながら
港 宮古 釜石 気仙沼

奇跡の一本松の地図 こちらから  
岩手県陸前高田市気仙町字砂盛176-6

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