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2014年6月

2014.06.16

終点

終点
北上駅に着きました。三陸海岸一週の旅終わりました。

盛で昼食

盛で昼食
三陸鉄道で釜石まで行きます。

奇跡の一本松

奇跡の一本松
けなげに頑張って立っています。高さは27M、けっこう高いです。後ろには、津波の被害を受けたビルが残されています。今は、土砂を運ぶコンべエアがタコの足のように伸びて、ダンプカーが行き来しています。TVの取材うけ、現地の感想を聞かれました。

気仙沼

気仙沼
気仙沼からバスで一松まで行きます。

三陸海岸一周

三陸海岸一周
0718一関を出発しました。

2014.06.14

書写山5 (弁慶と和泉式部)

弁慶と和泉式部の史跡があります。

和泉式部歌碑(開山堂にあります)



 (クリックで拡大表示されます) 
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ロープウエイを降りたところに、書写山と和泉式部の関係が絵で紹介されています。
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詩は和泉式部 小説は紫式部
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弁慶鑑井戸


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弁慶学問所


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弁慶のお手玉石


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書写山の地図は  こちらから

2014.06.12

書写山4 (金剛堂 鐘楼など)

書写山案内図(クリック拡大)
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金剛堂
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三十三所堂
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鐘楼
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瑞光院
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法華堂

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大仏
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ミニミニお地蔵さん(クリック拡大)
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2014.06.10

書写山3 (本多家・柳原家墓所 宝蔵院跡)

書写山には、ロープウエイで昇ります。
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本多家墓所
本多家は、江戸初期と中期の2度、姫路城主になりました。
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榊原家墓所
榊原家は、江戸初期と中期に2度姫路城主になっています。
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宝蔵院跡(本多家墓所の前)
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湯屋橋
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2014.06.08

書写山2 (摩尼堂 開山堂 護法堂)

ロープウエイで昇り、バスに乗り、降りたところに摩尼殿があります。そして、三つの堂、奥ノ院へと続いていきます。

書写山案内図(クリック拡大)
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摩尼殿(まにでん)
970(天禄元)年建立。斜面に建てられ京都の清水寺に似た壮大な掛造り(舞台造り)です。その姿に圧倒されます。1921(大正10)年に火災で全焼、(昭和8)年に再建されました。
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奥ノ院

 

開山堂
1007(寛弘4)年の創建。現在の建物は、江戸時代の建築で左甚五郎の作とされる力士像が軒を支えていますが、あまりの重さに北西の力士だけが逃げ出したという伝説があります。
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力士像
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護法堂拝殿(弁慶の学問所)
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2014.06.05

秀吉が本陣を置いた書写山1(大講堂 食堂 常行堂)

11578(天正6)年、三木城の別所長治が反乱を起こしたため、姫路城にいた秀吉は、別所と毛利に挟まれ窮地に陥ったが、官兵衛の進言で、秀吉は書写山に本陣を置きました。

 

書写山は、姫路城の北にあって標高は371M、山上に円教寺があります。966(康保3)年性空の創建と伝わっています。「西の比叡山」とよばれるほど寺格は高く、西国三十三所中最大規模の寺院で、中世には比叡山、大山とともに天台の三大道場と並び称された巨刹である。京都から遠い土地柄でありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇、法皇も多かった。

大河ドラマの中で官兵衛と半兵衛が話合っている場面に、三つの堂の建物が使われました。なかなか雰囲気のある場所です。
2003年公開のハリウッド映画『ラストサムライ』、NHK大河ドラマ『武蔵』(2003年)のロケ地にもなっています。
(参考資料:Wikipedia、姫路市パンフレットなど)

 

円教寺案内図(クリック拡大)
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円教寺由来(クリック拡大)
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ロケに使われた三つの堂(クリック拡大)
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中央:食堂廊下
修業僧の寝食のための建物。官兵衛ロケで使われていました。
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右:大講堂
衆僧の学問と修業の場として使われた。官兵衛ロケでは、三成の本陣造りの場面で使われていました。
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左:常行堂
修行の一つ「常行三昧」をする道場。舞台では、雅楽や舞の奉納が行われた。
※常行三昧とは、90日間にわって阿弥陀仏の名を唱えながら,そのまわりを歩きつづけて,つねに仏を念じ,心に極楽浄土や仏の三十二相などを浮かべる修行である。
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書写山と黒田官兵衛(クリック拡大)
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書写山について、 「播磨灘物語 三木城」 (司馬遼太郎著)には以下のように書かれています。

 

「どこか。---」と秀吉は官兵衛に問うと、

「書写山こそ」

官兵衛もおなじことを考えていただけに、即座に答えた。書写とは、土地の音では、そさという。
姫路の西北一里半にある山で、北方の山脈が播州平野にむかってくだってきたその南端の高地である。
平安中期、山林の修行僧だった性空(しょうくう)という者がここに登って開山し、円教寺を建てた。・・・・・・・・・・日向の霧島山や筑前の背振山(せぶりやま)でひとり修行し、両部の密教を体得し、播磨に来て書写山をひらいた。

・・・・・・・・・・・・・・

標高三百七十メートルで、南のふもとから登ると、二十余丁で頂上に達することができる。

「建物も多く、米も十分に貯蔵されておりますから、大兵を容れるに足ります」

と官兵衛がいった。

さらに地理的にも、西方の国境から毛利が入ってくればすぐに対応できる。ただし、東方の三木城攻めについては、やや不便になる。・・・・・・・・・・・・・

三月六日、秀吉とその軍勢は、円教寺に予告することなく書写山にのぼった。

 

書写山円教寺の地図は  こちらから

2014.06.03

秀吉も参拝した大覚寺

近くに鶴松亭があり、秀吉もしばしば参拝に訪れたようです。

 

又、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、安土から江戸時代にかけての三人の権力者の「禁制(きんぜい)」が保存されています。

 

秀吉の禁制には、「天正八年(1580)十二月六日」の日付と「筑前守」の署名があります。信長の播州平定の前線司令官として、羽柴筑前守秀吉が網干の地下人に宛てて発したもので、この年の4月に秀吉は黒田官兵衛を軍師として英賀城(姫路市 広畑区英賀)を攻め落としています。

※禁制(きんぜい)というのは、室町時代以後おもに箇条書きで軍隊が進攻するときに土地の者との悶着を避けるためには発せられた軍令書。


他に多数の寺宝があって、徳川幕府から10万石の縁を戴いて「三ツ葉葵」が寺の紋章として許されています。
(参考資料:大覚寺HPより)

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大覚寺門
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古い街並みがそのまま残っています。
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山本家住宅
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金刀比羅神社(こんぴらじんじゃ)
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大覚寺地図は こちらから

 

2014.06.01

鶴松亭と丸亀藩陣屋跡

1580(天正8)年、官兵衛は、秀吉から網干(あぼし)を含む揖保(いぼ)郡1万石を与えられたお礼に秀吉を松が生い茂る揖保川河口の沖の浜洲の陣屋で大茶会を催した。秀吉の席の近くの大松に鶴が巣を作っていたので、秀吉は大変気に入り、陣屋の名前を「鶴松亭」と名付けました。
本能寺の変の2年前のことです。また、鶴松は、秀吉と淀殿の間に生まれた子供の名前と同じで、秀吉は、鶴松と言う言葉が好きだったのでしょう。

1658(万治元)年、京極家が龍野から讃州丸亀に移封の際、網干1万石の領分を分割保有して、鶴松亭を治所として使用した。




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鶴松亭跡 丸亀藩治所跡
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史跡 豊太閤乃於茶屋鶴松亭跡
    併 丸亀藩京極家治所址

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丸亀藩(京極家)の家紋は平四つ目結紋
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鶴松亭 丸亀藩治所址の地図は  こちらから
姫路市網干区興浜浜1番地




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