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2014.05.27

二度落城した上月城(兵庫県佐用町)

福原城を落とした官兵衛は、翌日、約3K南に下がった上月城を攻めました。官兵衛は、戦況は上月城にとって不利な状況であるから降伏するように説得するが聞き入れられず戦いとなりました。秀吉軍は、1577(天正5)年12月3日に城内に攻め込み、兵の首をすべてはね、女、子供約200人を磔(はりつけ)と串刺しにして毛利方に見えるように国境に並べる、恐ろしい結末を迎えました。

上月城主:赤松政範(まさのり)の妻:力(リキ)は、官兵衛の妻:光(テル)の姉です。
官兵衛は、光の姉:力と子供の助命を秀吉に嘆願して許されました。 後に、力は尼となり、子供は、光が育てました。この姉妹は、志方城主:櫛橋(くしはし)左京亮の娘で播磨の美人姉妹として有名だったと思われます。


当時の城の配置図
26_3

上月城
上月城

登城口
登城口

城図
城図

上月歴史資料館(城登り口の前にあります)
資料館




その後、上月城には山陰の名族・尼子勝久、山中鹿助らの尼子勢が入りますが、1578(天正6)年4月、三万にも及ぶ毛利の大群に攻められ城は包囲されます。援軍に駆けつけた羽柴秀吉・荒木村重ら一万の織田勢は高倉山に陣を張り、対峙するも付け入ることもできず、時を同じくして反旗を翻した別所長治を討つため播州・三木城へと向かうこととなりました。織田勢の撤退により、見捨てられた尼子・山中鹿助が守る上月城は7月に落城します。信長・秀吉軍と西国の覇者毛利氏とにはさまれ、歴史の波に翻弄された上月城は、尼子氏の最期と共に歴史の表舞台に再び現れることはありませんでした。
(上月城案内板より)

慰霊碑とその先の建物は歴史資料館(駐車場)
慰霊碑

左:尼子・右:山中鹿野助碑
尼子山中碑

尼子碑
尼子碑


近くにあった碑  維新の志士:立石孫一郎
尊攘派志士 名は維敬,通称:恵吉,敬之介(大橋)。播磨国佐用郡上月村(兵庫県上月町)の生まれ〔1832年2月(天保3)〕。1865(慶応元)年、立石孫一郎と改名し長州藩南奇兵隊に入る。尊攘討幕を掲げて倉敷代官所および備中浅尾陣屋を襲撃した(倉敷浅尾騒動)。長州藩により銃殺された。    1866年6月(慶応2)死亡
立石孫一郎

上月城地図は こちらから

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黒田官兵衛ゆかりの史跡」カテゴリの記事

コメント

しずかさん
訪問とコメントありがとうございました。

戦になると相手を殺さないとこちらが殺される。

人間、こんなことをず~~と繰り返してきたんですね。

そして人数がもっと増えてきた。

歴史は、繰り返すですね。

>秀吉軍は、1577(天正5)年12月3日に城内に攻め込み、兵の首をすべてはね、女、子供約200人を磔(はりつけ)と串刺しにして毛利方に見えるように国境に並べる、恐ろしい結末を迎えました。

文字にしただけでも、恐ろし過ぎて想像もできません(-_-;)
戦とはいえ残酷な仕打ちですね。

めりいさん
訪問とコメントありがとうございました。

織田の援軍が来ないと分かったときは、どんな気持ちだったでしょうか。

城主は切腹、鹿之助は惨殺、負けた者としては当然の結果なのでしょうが、

織田に付いたのに、見捨てられた、結果は残酷でした。

上月城は播磨と毛利の国境にあるため、一度目は秀吉に攻められ、二度目は毛利に攻められ・・二度も落城するはめになったのですね。
小さいお城ながらも、その歴史的意味の大きなお城ですね。

シネマさん
訪問とコメントありがとうございました。

讃岐の美人ライターさん、その美貌は、四国を超えて、西日本一帯に
広がっています。
これからいよいよ、東京へ広げていかれますか。

美人姉妹いいですね~

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