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2014年5月

2014.05.29

加古川城

福原、上月城を攻め落として播磨を平定した秀吉は、いよいよ毛利との対決に備えて、播磨の豪族を加古川城(称名寺)に集め、評定を開きました〔1577年(天正5)〕。 しかし、播磨の盟主:三木城主:別所長治は、毛利に付くと言い、御着城主:小寺政職(まさたか)の家臣で志方城主:櫛橋左京進も同調した。

官兵衛の懸命な説得にもかかわらず、三木が毛利についたことで、播磨の多くの豪族は同調して官兵衛のもとを離れます。そして、またまた、上月合戦で姉妹が対決したように、今回は、官兵衛の妻:光対兄:左京進の兄妹対決となりました。




加古川城の配置図
加古川城地図


称名寺門(しょうみょうじ)
門

本堂
本堂

城主:糟谷(内善正)武則(12代加古川城主)は、官兵衛の推挙で秀吉に仕え、小姓頭となり、三木合戦で活躍、賤ヶ岳合戦では、一番槍に武名を残しました。

播磨鑑によると、加古川城は、加古川村にあって、称名寺一帯(約90M四方)が城であったと書かれています。 今は、周りいったいは住宅地、学校が建っていて、城跡の痕跡はありません。

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お寺全景
城横景

いちょう境内の巨大な
イチョウの木



七騎供養塔
1820(文政3)年に建立された、頼山陽筆によるものです
南北朝時代、出雲守」塩治判官高貞が加古川で足利尊氏軍に襲われた際に、弟など郎党七名が主君を守ろうと戦って全員が討死した、その供養のために建てられたものです。
七騎顕彰

七名の名前
七騎名

碑文
板
頼襄は頼山陽の著名

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鶴林寺
加古川地域の名刹で、官兵衛時代、僧兵を多く抱えたお寺で、豊臣に味方したため戦火をまぬかれました。官兵衛が福岡藩主になったとき、祈祷をしていただいたお礼に、約1億円に相当する寄付をしています。
鶴林寺


加古川城(称名寺)の地図は  こちらから
(鶴林寺はここから東南に約2K)

2014.05.27

二度落城した上月城(兵庫県佐用町)

福原城を落とした官兵衛は、翌日、約3K南に下がった上月城を攻めました。官兵衛は、戦況は上月城にとって不利な状況であるから降伏するように説得するが聞き入れられず戦いとなりました。秀吉軍は、1577(天正5)年12月3日に城内に攻め込み、兵の首をすべてはね、女、子供約200人を磔(はりつけ)と串刺しにして毛利方に見えるように国境に並べる、恐ろしい結末を迎えました。

上月城主:赤松政範(まさのり)の妻:力(リキ)は、官兵衛の妻:光(テル)の姉です。
官兵衛は、光の姉:力と子供の助命を秀吉に嘆願して許されました。 後に、力は尼となり、子供は、光が育てました。この姉妹は、志方城主:櫛橋(くしはし)左京亮の娘で播磨の美人姉妹として有名だったと思われます。


当時の城の配置図
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上月城
上月城

登城口
登城口

城図
城図

上月歴史資料館(城登り口の前にあります)
資料館




その後、上月城には山陰の名族・尼子勝久、山中鹿助らの尼子勢が入りますが、1578(天正6)年4月、三万にも及ぶ毛利の大群に攻められ城は包囲されます。援軍に駆けつけた羽柴秀吉・荒木村重ら一万の織田勢は高倉山に陣を張り、対峙するも付け入ることもできず、時を同じくして反旗を翻した別所長治を討つため播州・三木城へと向かうこととなりました。織田勢の撤退により、見捨てられた尼子・山中鹿助が守る上月城は7月に落城します。信長・秀吉軍と西国の覇者毛利氏とにはさまれ、歴史の波に翻弄された上月城は、尼子氏の最期と共に歴史の表舞台に再び現れることはありませんでした。
(上月城案内板より)

慰霊碑とその先の建物は歴史資料館(駐車場)
慰霊碑

左:尼子・右:山中鹿野助碑
尼子山中碑

尼子碑
尼子碑


近くにあった碑  維新の志士:立石孫一郎
尊攘派志士 名は維敬,通称:恵吉,敬之介(大橋)。播磨国佐用郡上月村(兵庫県上月町)の生まれ〔1832年2月(天保3)〕。1865(慶応元)年、立石孫一郎と改名し長州藩南奇兵隊に入る。尊攘討幕を掲げて倉敷代官所および備中浅尾陣屋を襲撃した(倉敷浅尾騒動)。長州藩により銃殺された。    1866年6月(慶応2)死亡
立石孫一郎

上月城地図は こちらから

2014.05.24

福原城(兵庫県佐用町)

秀吉の播磨平定戦で、毛利方の最前線である福原城(佐用城)を、 1577(天正5)年、官兵衛と半兵衛とで一日で攻め落としました。地元の伝承では、福原則尚は戦死せず、城に火を放って高尾山福円寺まで逃れ、12月1日ここで自害して果てたと伝えています(『三日月町史』2)。官兵衛は、攻めるとき孫子の兵法「囲師必けつ(いしのひっけつ)」を使い、三方を囲み、後ろ一方を開けて逃げ道を作っておいた。そして、そこから逃げようとした者、城内に居た者、すべて切ったようです。落城時点で、城は廃城となり、地元の人によって、城主福原則尚を祀るために、土塁上に霊社を建立しています。頭脳明晰であったため、今でも参拝する人が多くいます。

城の建物はありません。霊社周りは畑地になっていて、土塁、堀と思われる跡が残っています。


城配置図
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福原城跡(霊社があります)
霊社全

霊社
霊社

福原則尚辞世の歌
「死ぬなれば花の下にと思いしに 師走の花の咲くべくもなく」
死ぬのは、花の下がいいと思っていたが、師走に死んだのでは花が咲くはずもない
 
辞世の句

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土塁
霊社うら


城跡入口道路
(中国自動車道佐用ICから南に、看板あります)
入口


福原城への地図は こちらから

2014.05.22

松原八幡神社(官兵衛が拝殿を寄進)

灘のけんか祭りで有名な神社です。

羽柴秀吉と別所長治との三木合戦の際、約3000人の勢力を持つこの神社に対して、両陣営より応援要請がありましたがどっちつかずの対応をとったため、三木城側は、怒り、火を放ち灰塵と化した歴史があります。その後、播磨を平定した秀吉は移設を強要し、官兵衛が由緒ある地として存続を懇願したそうです。そして、社領を減じられながらもこの地で存続することができました。また、1584(天正12)年には、官兵衛が拝殿を寄進したと伝えられています。
(参考資料:ひめじ官兵衛推進協議会発行パンフレットなど)



松原神社地図
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松原八幡神社本殿
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神社由来(クリック拡大)
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楼門(ろうもん)
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絵馬堂

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赤鳥居
祭りの時、鳥居の向こうの広場に神輿が集結します。
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粟生(あわ)の松原恋の浜石碑
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松原八幡神社詳細地図は こちらから 

2014.05.20

総社(そうしゃ) 黒田家の旗

総社(そうしゃ)は、 官兵衛の父・職隆が拝殿や神門を再建、官兵衛も制札を与えるなど、その保護に努めました。

総社地図(クリック拡大)
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黒田家の旗
また、黒田家系譜によると豊臣秀吉より軍陣において旗を立てる許しを得た官兵衛は、父・職隆と相談し、 播磨国総社で7日間にわたり祈祷を行い父子共々、毎日参詣した。

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当社は、総社さん、総社の神様と呼ばれていますが、正式な神社名は射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)と云い、射 楯大神(いたてのおおかみ)と兵主大神(ひょうずのおおかみ)を御祭神としてお祀りしています。 境内には、総社の名の由来になっている播磨国内の大小明神をはじめ、摂末社の神々を合わせ祀っています。

 この門はかつて、姫路城の中曲輪の南部に設けられた城郭門のひとつで、総社西門に至るところから「総社門」の名称がつけられました。

総社御門
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車祓い所、左:八重垣門
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稲荷社
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厳嶋社
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神門
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血の池
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(クリック拡大)
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総社の地図は  こちらから


 

2014.05.16

田井が浜・巽地蔵

毛利軍が攻めてきた田井が浜は、英賀城内の一画にありました。今は、埋め立てられて住宅地になっていて、お地蔵さんが祀られています。



英賀城概略図下の㉔(クリック拡大)
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巽地蔵
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(クリック拡大)
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山陽電車が上を走っていて、周りは埋め立てられ、昔の港だった面影はありません。

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『播磨灘物語:英賀の浦』に、1576(天正4)年5月、英賀の港に上陸した毛利軍5000の兵に対し、官兵衛軍わずか1000の兵で撃退したことが書かれています。

 

播磨灘物語の一節「英賀の浦」

英賀というのは、官兵衛の姫路城から夢前川(ゆめさきがわ)の河口にむかってわずか2里(約8K)ほどの海岸にある城である。・・・・・・勢力としては、もともと官兵衛の姫路城よりは大きいが、さらにおそるべきことは、英賀衆のほとんどが一向宗(門徒・本願寺)になり、大坂の石山本願寺を応援していることだった。当然、織田氏の敵になる。




官兵衛史跡地図
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田井ケ浜・巽地蔵の地図は こちらから

2014.05.09

英賀城史跡(兵庫県姫路市)

英賀城は川と海に囲まれた堅牢な城で、英賀神社を含んだ広い範囲にありました。現在は、住宅地になっていますが、多くの城史跡が残っています。赤枠で囲んだ範囲がおおよその城敷地でした。

姫路市内黒田 官兵衛史跡図(クリック別窓で拡大表示)
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英賀城概略図(西葛飾駅前にあります)(クリック拡大)
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案内板説明(クリックで別窓で拡大表示)
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本丸跡碑
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(クリック別窓で拡大)
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英賀神社裏土塁跡
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英賀神社裏公園内石垣
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野中口碑(公園内)
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英賀薬師(井之上口跡碑 大木の清水)
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案内板)クリック別窓で拡大表示)
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井之上口碑
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大木の清水
入浴すれば万病に効く「薬の井戸」と言われていました。
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明蓮寺本徳寺跡碑
本徳寺は、1515(永正12年、蓮如の弟子によって英賀城下に本堂が開かれました。
明蓮寺は、英賀本徳寺が建立された直後の1517(永正14)年、英賀六代城主三木通規の家臣神出左衛門の母妙蓮尼によって建立されました。
 
当時、英賀は浄土真宗に帰依した三木一族を中心に運営される自治都市「寺内町」で、織田信長と戦う大阪の石山本願寺と深い繋がりをもっていました。
1580
(天正8)年、信長の命を受けた羽柴(豊臣)秀吉によって「寺内町」は解体されました。その時、英賀本徳寺は亀山(姫路市亀山)へ移されましたが、明蓮寺は唯一英賀の地へ残りました。
 
明蓮寺の境内に1938(昭和13)年に「英賀本徳寺跡碑」が建てられました。
 
住所: 兵庫県姫路市飾磨区英賀西町2丁目105

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英賀城本丸跡近辺地図は こちらから

 

 

2014.05.06

英賀神社(兵庫県姫路市)

黒田 官兵衛について書いた小説で有名なのが、司馬遼太郎著「播磨灘物語」があります。 秀吉が英賀城(あが)を攻めたとき、城に立て籠もる英賀衆の中に司馬氏の先祖がおられました。


官兵衛ゆかりのMAP
官兵衛マップ
 

英賀(あが)は姫路市の南西部に位置し、今は住宅街になっていますが、官兵衛の時代には、西は夢前川、東は水尾川、北は湿田、南は内海に囲まれた城が築かれ、浄土真宗の英賀本徳寺(英賀御堂)を中心に寺内町、商業の町としても栄えたところでした。



英賀城史跡図(赤い枠内がおおよその城)
東西:約900M  南北:約800M

英賀史跡地図



英賀神社
英賀神社

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英賀神社由来(クリック拡大)
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御神木
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なで牛
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播磨灘物語の碑(英賀神社内)
播磨灘碑

『播磨灘物語:英賀の浦』に、1576(天正4)年5月、英賀の港に上陸した毛利軍5000の兵に対し、官兵衛軍わずか1000の兵で撃退したことが書かれています。

 

播磨灘物語の一節「英賀の浦」

英賀というのは、官兵衛の姫路城から夢前川(ゆめさきがわ)の河口にむかってわずか2里(約8K)ほどの海岸にある城である。・・・・・・勢力としては、もともと官兵衛の姫路城よりは大きいが、さらにおそるべきことは、英賀衆のほとんどが一向宗(門徒・本願寺)になり、大坂の石山本願寺を応援していることだった。当然、織田氏の敵になる。

(中略)

二度駆けの途中で空が白んだ。官兵衛はそのように最初から計画した。陽が昇ると、霧が立つ。その霧のはるか後方に、地を圧するような武者押しの声がわきあがった。官兵衛が用意しておいた数百の百姓の疑兵である。陣貝が鳴り、陣鼓がはげしくとどろき、霧が薄れてゆくかなたに無数の旗がひるがえった。毛利勢は、敵の後詰がせまっていることを知った。かれらは無用の損害を避けるために退却を開始した。
「追うな」 官兵衛は、追撃をやめさせた。・・・・・

やがて英賀城の背後の浜から船に乗って播州を去りはじめた。その白帆のむれがひとひらずつ沖へ遠ざかってゆく光景を、物見がひどく詩的な表現で官兵衛に報告した。
「まるで蝶が去ってゆくような景色でございました。」

英賀城の地図は こちらから

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