室山城(室津城)は鎌倉末期〜室町期にかけて播磨を支配した赤松氏が建てたと考えられています。その後、山名氏を経て浦上氏が室山城を支配しており、やがて龍野城主の赤松政秀と対立し、浦上政宗は御着城の小寺氏と婚姻による同盟を図るべく黒田職隆の娘を姫として迎えました。しかし、それに反発した龍野城主:赤松村秀と子の政秀親子は、1566(永禄9)年正月、室津城主:浦上正宗の子の清宗が祝言を上げている最中に、室津城を急襲し、正宗親子と花嫁を殺害しました。以後、室山城は廃城になっています。
室津城の写真はありません。
今は、牡蠣が美味しい季節です。
当時の勢力図
官兵衛時代(1500年代の中頃)の播磨一帯(姫路市)の勢力図は、赤松氏本家が置塩城(おきしお)に居住して龍野城は、分家の城でしたが力は龍野の方があったようです。対して、御着城の小寺を中心とした勢力が姫路に出城を構え、室津城の浦上家は,、赤松側でしたが反赤松となりました。
置塩城は、赤松政則(あかまつまさのり)が、1469(文明元)年に築いたとされる山城です。標高360mの城山には石垣の一部が残されています。
港町室津について、奈良時代の播磨風土記(713年 和銅6)に「この泊り、風を防ぐこ室のごとし、ゆえに名となす」と室津の名の由来を記述しています。1180(治承4 平安時代末期)には、平清盛が高倉上皇と宮島厳島神社詣で、この地の賀茂神社に参拝し、宮島へ行った記録があります。室町時代から江戸時代にかけて朝鮮より日本へ派遣された外交使節団:朝鮮通信使もこの港を使っています。、また、参勤交代で西国の大名が宿泊しました。
室山城跡地には、特に大きな遺構などはありません。明治になって、陸上交通が発達してからは、この港町も衰退していきました。それだけに、昔の雰囲気が多く残っています。今では、昔栄えた港町として、文学にも登場し、風情を残しています。
室津観光地図〔中央に室山城跡(室津城)があります〕
国道250号線に沿ってある千年茶屋の前から、スロープを降りて街に入ります。街の中には車を置く場所がありませんので、スロープで下りた所が駐車場になっています。
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メインストリートです。戦後見たような風景で、車は一方通行で通れます。昼頃の写真ですが、漁師町なので休んでおられるのか人影がありません。
海と山に挟まれた狭い地域に街ができたので、家は階段状に建っていて、路地は人が通るのがやっとです。
司馬遼太郎も訪問して感想を残しています。
海駅館(豪商嶋屋の建物 江戸時代の海上交流の資料展示)
民俗館(豪商魚屋の建物 民俗資料館)
賀茂神社
平清盛も参拝しました。
賀茂大鳥居
賀茂本殿
室町時代から行われていた朝鮮通信使は、朝鮮国王の親書を日本の将軍に持参した使節団です。一行は500人前後の一行で室津港に寄港していました。
室津は遊女発祥の地と言われています
友君とは木曾義仲の愛妾であると言われています
浄運寺に友君のお墓があります。
友君
浄運寺
室津港の地図は こちらから
兵庫県 揖保郡御津町室津