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2014年3月

2014.03.26

 心光寺(姫路市 黒田家菩提寺)

 

心光寺には黒田家の菩提寺で官兵衛の祖父:重隆公、重隆公妻、官兵衛の父:職隆(もとたか)、職隆公妻らの位牌が祀られてます。

 又、同寺の古記録に「小寺官兵衛祐隆後改孝隆。氏改め黒田。入道して如水という、播磨の国多可郡黒田村の産なり。其所の名に寄て、後、黒田氏に改めて、当城に相続して居す(当城は姫路也)」と記述されています。




本堂
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面入り口
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門(黒田家廟所から移築した門)Photo_3



灯篭(黒田家廟所から移築した灯篭)Photo_4




心光寺全面
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心光寺地図は こちらから



 

 

2014.03.23

もうひとつの官兵衛物語(6) 兵主神社 腰掛石

官兵衛が西脇市黒田庄の出であることの証拠に秀吉が黒田庄に来ていることです。三木城攻めの時、秀吉が腰掛けて指揮を執った石があり、また、戦勝祈願をした神社があります。


兵主神社と腰掛石のある極楽寺地図
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兵主神社
(ひょうす)
播磨攻めで三木城主:別所長治をなかなか攻め落とせなかった秀吉は、兵主神社の兵主が中国史記に出てくる武神でもあることから、黒田官兵衛に代参させ奉納金を納めて戦勝祈願をした言い伝えがあります。奉納金で拝殿が建設されました。官兵衛46歳のときで、如水と名乗っていました。
兵主本

兵主全

大鳥居

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秀吉腰掛石

三木城攻めのとき、秀吉は、大志野(現在の西脇市黒田庄町南部)に陣をはって、この石に腰掛けて指揮をとったと言われています。極楽寺境内(兵主神社の前の池を挟んだ反対側にあります)
腰掛石

石神社

極楽寺の中に腰掛石はあります
極楽寺

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官兵衛姫路出生説と黒田庄出生説を紹介してきましたが、この二人の官兵衛がつながるのは、姫路城主となったところからです。    
官兵衛が誕生したときから約400年が過ぎた今、どちらが正しいのか決定的なものはありません。このような謎を想像するのが歴史の楽しいところでもあります。


兵庫県西脇市黒田庄町の地図は こちらから


播磨黒田家の資料紹介  西脇市HPはこちらから

2014.03.21

もう一つの官兵衛物語(5) 官兵衛の母の里

官兵衛の母:松の前は、比延山城主8代比延常範(つねのり)の娘です。 

大河ドラマでは、官兵衛は姫路城誕生説を使っており、父は職隆、母は明石氏の娘となっています。ここでは、黒田庄で生まれ、父は重隆、母は比延山城主の娘(松の前)である播磨黒田説を紹介します。


荘厳寺所蔵家系図
父:重隆 母:比延常範女    (クリック拡大)
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比延山城址
(ひえやまじろ)

黒田城から南西約3Kのところにあります 。

この山城には、180mの曲輪がありましたが建物は小屋程度のもので、平時は、麓に居住して、戦いの時だけ山城に籠ったようです。   

  現在は、麓に城山公園があって、サッカー場、野球場があります。   
比延城   

  城山公園入口   
城入口   

比延山城と官兵衛(クリック拡大)
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日本へそ公園
   
  西脇市には、東経135度・北緯35度の交差点があり、ここが「日本列島の中心」に当たることから、「日本のへそ」のまちとしてPRしています。   
へそ地図   

にしわき経緯度地球科学館(愛称:テラ・ドーム)   
公園   


にほんへそ公園駅
  駅名も日本の中心であることをPRする名前になっています。   
駅   
 


比延山城(城山公園)とへそ公園の地図は 
こちらから

 

播磨黒田家の資料紹介  西脇市HPはこちらから   
 

2014.03.19

もう一つの官兵衛物語(4) 円光寺 キリシタン地蔵

もう一つの官兵衛出生の地は、兵庫県西脇市黒田庄にあります。

姫路市の心光寺(黒田家菩提寺)の古文書には、『小寺官兵衛祐隆は、 播磨国多可郡黒田村の産である。その所の名によって、後に黒田氏に改めて、当城(姫路城)を相続して居城した』とあります。



黒田庄官兵衛史跡図
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円光寺跡
黒田家の菩提寺と言われ、播磨黒田氏滅亡とともに廃寺になったようです。はっきりした場所が分かるものはありませんが、江戸時代までは、このあたりにあったと言う伝承があります。現在は、中学校と田んぼになっています。
黒田庄中学
円光寺

中学の東側
円光寺跡中学






キリシタン地蔵

官兵衛は、キリシタンでした。(イエズス会資料やフロイスの「日本史」に官兵衛に関する記事がいろいろあります。)それから推測するとキリスト教がこの地に伝わってきたとしてもおかしくありません。このキリシタン地蔵は、背中にはっきりと十字の文字が浮彫で掘られています。法名は女性の名で、寛永8年(1711)と書かれており、官兵衛生存の時代から100年以上たったお墓です。この地蔵さんには首がありません、キリシタン禁教令で破壊されたものなのか、今は、頭の所に石が置かれています。

真ん中のお地蔵さんがキリシタン地蔵です
キリシタン地蔵全

背面にはっきりと十の文字があります  
地蔵2+ 地蔵2+

お墓全体の左側 車道から2列目くらいにあります。
地蔵場所
風雪にさらされて十字架の印も見えなくなってきています。末永く保存するために囲いをするなどの保護をする必要があると思われます。



本黒田駅
歓迎
本黒田駅


一日上下各9本の電車しか走っていません。
駅電車




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黒田庄の地図は  こちらから

2014.03.17

もう一つの官兵衛物語(3) 構居跡 松ガ瀬

黒田官兵衛は、兵庫県西脇市黒田庄町の生まれであると言う説に関係のある史跡の紹介です。
JR本黒田駅から行くことができます。

黒田庄官兵衛史跡図
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構居跡〔(かまい又こうきょ) 多田城跡〕
城主館や武家屋敷があったところで、黒田城から約700Mくらいの所にあります。平時は、ここで生活しており、戦いになると山上の城に籠った。説明板に以下の内容が書かれています。

近年、広峯神社の社家:魚住家屋根裏から発見された資料には、『1712(正徳2)年の重隆(の名前)のところに、「伝曰く下野守重隆は初は播州多可郡の庄内を領して居住す黒田村と称す四方に堀や土手のある屋敷があった」と、今、(正徳2年)より40年以前、この村の古老が話した』と書かれています。
(クリック拡大)

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構居跡(真ん中に説明板があります 多田城跡)
構居

多田板

このあたりに武家屋敷があったと思われます
案内板




松ガ瀬 (まつがせ)
多田城落城の時、家老が幼君を抱えご母堂の手をとって滝野川(加古川)を渡たって姫山(姫路城)を目指しましたが、水勢強く流され、ご母堂は溺死しました、その場所を母の名前:於松どの(松の前)をとって松ガ瀬といいます。一方、幼君は、家老が守り、姫山に落ち延び成長したのが黒田官兵衛と言われています。 (福岡県立図書館所蔵の資料にのっています) 

以上松ガ瀬説明板より

上流に松ガ瀬があります   
松が瀬1   

土手に案内板があります   
松ケ瀬案内

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道路に松ヶ瀬の看板のお店があり、右手が松ガ瀬です。   
看板


酒「官兵衛のの里」

我 人に媚びず 富貴を望まず
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2014.03.15

もうひとつの官兵衛物語(2) 官兵衛出生の里

もう一つの官兵衛誕生の地は、兵庫県西脇市黒田庄町です。NHK大河ドラマで黒田官兵衛が放送されることが決まって、官兵衛で町おこしをと官兵衛史跡が整備されています。

黒田庄の官兵衛史跡図
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黒田官兵衛誕生の里碑
誕生碑



黒田城は山城で麓に城主の館があって、そこで官兵衛が生まれ、住んでいただろうと思われる場所が「姥が懐(うばがふところ)」の地名が残っています。
黒田城文字



姥が懐(うばがふところ)
官兵衛が生まれたであろうと思われる場所。
姥が懐

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「姥が懐(うばがふところ)」とは、多くは南に面した日当たりの良い場所を意味し、あたかも乳母(うば)の懐に抱かれているようなと言う意味から他の場所でも地形名として使われています。



姥が懐の横からお城に登る道があり、稲荷社のあたりは、櫓が組まれていたと思われます。
城入口

稲荷社
稲荷社

 

播磨黒田家の資料紹介  西脇市HPはこちらから

2014.03.14

もう一つの官兵衛物語(1) 黒田庄の古文書

NHK大河ドラマでの官兵衛は、父:職隆、姫路城で生まれたとしていますが、近年、官兵衛についての研究がすすみ、出生地は、西脇市黒田庄であると言う有力な説がでてきました。現地に行って調べてきました。



官兵衛時代の城配置図
略地図



西脇市黒田庄官兵衛史跡図
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荘厳寺(しょうごんじ)に官兵衛に関することが書かれた古文書があります
650年に天竺(インド)の僧法道仙人の開基と伝えられています。1596(慶長年間)年に徳禅上人が当山に入り、再興され真言宗高野山派の末寺として栄えました。
荘厳寺全景


本堂入口



荘厳寺(しょうごんじ)案内板より(兵庫県西脇市黒田庄)

播磨黒田は、赤松氏の一族で、1351(観応2)年に赤松一族の七郎重光が黒田城に住んで播磨黒田氏の初代となりました。8代黒田城主:重隆(しげたか)に、二人の男子がいて、



兄:治隆(はるたか)は、重隆の後を継いで9代城主となりましたが、1570(元亀のころ)年代はじめのころ、合戦に敗れ、播磨黒田は滅亡しました。


弟:考隆(よしたか 官兵衛)は、姫路城主:小寺職隆(もとたか)の養子となって、小寺官兵衛を名乗り、御着城主:小寺氏の家老となり、姫路城主となりました。



これら説の資料として、心光寺(姫路市 黒田家の菩提寺)の古文書「考隆は、播磨国多可郡黒田村の産なり」とあり、当地(兵庫県西脇市黒田庄)が官兵衛の出生地であると明記されています。また、当地の荘厳寺(しょうごんじ)所蔵の本黒田家略系図(黒田氏の発生から滅亡までの歴代が記されています)にも記されています。






荘厳寺所蔵「黒田家略系図」
考隆 官兵衛
   小寺美濃守職隆の猶子(養子)トナリ姫路城ヲ守ル
略系図

系図拡大

略系図が展示されています。
展示中

昔の雰囲気がそのまま残っています
土塀

西景色

顔写真


続いて、黒田庄にある官兵衛関連の史跡を紹介しますので、訪問お願いします。

播磨黒田家の資料紹介  西脇市HPはこちらから 

荘厳寺の地図は こちらから

2014.03.11

官兵衛一番の家臣:栗山善助 黒田二十四騎

官兵衛に使えた一番の家臣

官兵衛ゆかりのMAP(クリック拡大)

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栗山善助碑
1月12日に登場した栗山善助(濱田岳)は、黒田官兵衛に初めて仕官した百姓出の若者で、その後、官兵衛がもっとも信頼をおいた家来として仕えました。黒田二十四騎、黒田八虎の1人です。
栗山町内の栗山公園に善助の碑があります。
「昔、この辺りに大きな栗の木があって栗山村と言われていた。栗山善助は、この村で生まれ、後に官兵衛の最初の家来となった。」
栗山公園赤4

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灘菊酒造内には、栗山善助の屋敷がありました。
栗山公園の近くです
栗山灘菊

栗山灘菊2

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黒田二十四騎

黒田官兵衛には、「黒田二十四騎」という優秀な側近がおり、その中でも特に官兵衛の信任のあつい武将は「黒田八虎」と呼ばれていました。

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栗山善助 官兵衛の側近中の側近。

後藤又兵衛 槍使いの名手

母里友信(もり) 酒豪:福島正則から名槍「日本号」を飲み取り、黒田節に歌い継がれています。

 

酒は飲め飲め 飲むならば
日の本一の この槍を
飲みとるほどに 飲むならば
これぞまことの 黒田武士




栗山善助 の屋敷のあった灘菊酒造と栗山町由来の碑がある栗山公園
地図は こちらから

2014.03.09

青山古戦場跡

1569(永禄12)年5月、龍野城主:赤松政秀は3,000の兵を率いて出陣する。

黒田官兵衛は、姫路には一歩たりとも入れさせない

わずか300人程度の兵力で野戦を仕掛けた。

姫路城の西の青山(現:兵庫県姫路市青山ゴルフ場)の地に兵を伏すと、姫路を攻めようとした赤松軍を奇襲して撤退させることに成功しました。

これが、官兵衛の初陣と言われています。



同年6月に3,000の兵を率いた赤松政秀が再び攻め込んできました。黒田軍は、
土器山(かわらけやま)に陣を張った。戦闘は赤松軍の土器山の黒田軍への夜襲で始まった。兵150の官兵衛は窮地に陥ったが、姫路から父:職隆軍が出撃して赤松軍の後背を突いたことでやっと窮地を脱することができました。

しかし、戦いは赤松軍優勢のままでした。赤松軍は勝利の前祝の祝宴を張っている所に

官兵衛は「先陣は、私が勤める」と疲れ切った兵を叱咤激励して、夜襲を仕掛けます。昼までの戦闘での戦果から黒田軍の反撃を予想していなかった赤松軍はこの夜襲をうけて混乱し敗走しました。

姫路城に帰った官兵衛は、勝利のときの声をあげましたが、死傷者287人という、ひどい状況での悲しい勝どきでした。

「えい えい おーーー」


青山の古戦場跡と官兵衛陣地跡を紹介します。



青山合戦地図

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青山古戦場(青山ゴルフ場)

青山古戦場

戦いのあった場所で今はゴルフ場です
青山ゴルフ

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クリック拡大           黒田家家紋の藤の花

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土器山(かわらけやま 船越神社)の官兵衛陣地
青山古戦場から東へ約3Kの船越神社の裏山に官兵衛の陣地がありました。
船越神社

官兵衛群陣地跡(神社の裏山にあります)
船越陣地跡

船越陣地板



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青山合戦地・土器山地図は こちら



2014.03.06

黒田家と同盟関係にあった室津城

室山城(室津城)は鎌倉末期〜室町期にかけて播磨を支配した赤松氏が建てたと考えられています。その後、山名氏を経て浦上氏が室山城を支配しており、やがて龍野城主の赤松政秀と対立し、浦上政宗は御着城の小寺氏と婚姻による同盟を図るべく黒田職隆の娘を姫として迎えました。しかし、それに反発した龍野城主:赤松村秀と子の政秀親子は、1566(永禄9)年正月、室津城主:浦上正宗の子の清宗が祝言を上げている最中に、室津城を急襲し、正宗親子と花嫁を殺害しました。以後、室山城は廃城になっています。

室津城の写真はありません。
今は、牡蠣が美味しい季節です。



当時の勢力図
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官兵衛時代(1500年代の中頃)の播磨一帯(姫路市)の勢力図は、赤松氏本家が置塩城(おきしお)に居住して龍野城は、分家の城でしたが力は龍野の方があったようです。対して、御着城の小寺を中心とした勢力が姫路に出城を構え、室津城の浦上家は,、赤松側でしたが反赤松となりました。
置塩城は、赤松政則(あかまつまさのり)が、1469(文明元)年に築いたとされる山城です。標高360mの城山には石垣の一部が残されています。



港町室津について、奈良時代の播磨風土記(713年 和銅6)に「この泊り、風を防ぐこ室のごとし、ゆえに名となす」と室津の名の由来を記述しています。1180(治承4 平安時代末期)には、平清盛が高倉上皇と宮島厳島神社詣で、この地の賀茂神社に参拝し、宮島へ行った記録があります。室町時代から江戸時代にかけて朝鮮より日本へ派遣された外交使節団:朝鮮通信使もこの港を使っています。、また、参勤交代で西国の大名が宿泊しました。

室山城跡地には、特に大きな遺構などはありません。明治になって、陸上交通が発達してからは、この港町も衰退していきました。それだけに、昔の雰囲気が多く残っています。今では、昔栄えた港町として、文学にも登場し、風情を残しています。

 

室津観光地図〔中央に室山城跡(室津城)があります〕
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国道250号線に沿ってある千年茶屋の前から、スロープを降りて街に入ります。街の中には車を置く場所がありませんので、スロープで下りた所が駐車場になっています。
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メインストリートです。戦後見たような風景で、車は一方通行で通れます。昼頃の写真ですが、漁師町なので休んでおられるのか人影がありません。
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海と山に挟まれた狭い地域に街ができたので、家は階段状に建っていて、路地は人が通るのがやっとです。
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司馬遼太郎も訪問して感想を残しています。
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海駅館(豪商嶋屋の建物 江戸時代の海上交流の資料展示)
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民俗館(豪商魚屋の建物 民俗資料館)
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賀茂神社
平清盛も参拝しました。
賀茂大鳥居 
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賀茂本殿
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室町時代から行われていた朝鮮通信使は、朝鮮国王の親書を日本の将軍に持参した使節団です。一行は500人前後の一行で室津港に寄港していました。
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室津は遊女発祥の地と言われています
友君とは木曾義仲の愛妾であると言われています
浄運寺に友君のお墓があります。
友君  
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浄運寺
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室津港の地図は こちらから

兵庫県 揖保郡御津町室津

2014.03.04

宿敵赤松氏の居城:龍野城

官兵衛の時代の播磨地方は、御着城の小寺氏と龍野城の赤松氏が対峙していました、官兵衛の父:職隆の姫路城は、御着城の出城として対赤松の最前線であって、赤松側と小競り合いが続いていました。

城配置図
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龍野城
(山城から平山城へ)
1499(明応8)年に赤松村秀が鶏籠山に築き、代々赤松氏が城主でしたが、1577(天正5)年に秀吉に明け渡し、蜂須賀正勝が城主となりました。城主は次々と変わり、1672(寛文12)年に、信州飯田から脇坂安政が入城して、その時に山頂の櫓は放棄され、山裾の平山城が築造されました。その後、脇坂藩は1871(明治4)年まで続きました。


龍野城本丸御殿(後ろの山に赤松時代のお城がありました。)
屋敷
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山城登り口
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城前通り  石垣門
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龍野は、古くから交通の大動脈で、山頂に城のあった鶏籠山と揖保川に挟まれた城下町として発展しました。今では、播磨の小京都と言われるように、昔のたたずまいが残っている静かな町で、多くの観光客が訪ねてきます。醤油、素麺、皮製品は伝統産業です。また、童謡「赤とんぼ」の作詩者:三木露風は、ここの出身者です。

          脇坂家         武家屋敷
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          古壁           交差点
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兵庫県龍野町の地図は  こちら

2014.03.02

官兵衛の妻:光(テル)の出身地 志方城

官兵衛の父:職隆は、優秀であっただけに、主君である御着城主:小寺政職から謀反の疑いをかけられ、その疑いを晴らすため、官兵衛に家督を譲る事を決めました。

そして、小寺政職の勧めで、官兵衛は、志方城3代目城主:櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の次女:光(テル)を嫁にもらいました。官兵衛22歳の時でした。

 

光は、1553(天文22)年に生まれ、1567(永禄10)年、15歳の時、叔父にあたる小寺政職の養女となって黒田官兵衛と結婚する。一夫多妻が一般的だった戦国時代、側室を持たなかった官兵衛のただ一人の妻として官兵衛を支え続けました。

1627(寛永4)年没,75歳の長寿をまっとうした。

法名:照福院殿然誉浩栄大尼公

光自画像 旗

 



志方城は、1578(天正6)年、毛利討伐のために播州入りした豊臣秀吉によって攻められ、落城しました。この時の光の立場は、嫁ぎ先は、攻める秀吉方、実家の櫛橋家は、反秀吉側でした。光の胸の内は、複雑なものだったでしょう。
1587(天正15)年、城主の墓碑を守るため城の本丸跡に禅寺を建てたのがこの観音寺です。

観音寺正門 

正門
 

本堂
建物

西門
西門



櫛橋家の墓

墓 

志方城主 櫛橋家累代の墓

 墓2


志方城地図

城地図

志方城の地図は こちら
兵庫県加古川市志方町志方町720

 

2014.03.01

官兵衛の母:岩の出身地 枝吉城

官兵衛の母:岩は、播磨国明石郡枝吉城主の明石宗和(あかしそうわ)の娘として、1531(享禄4)年に生まれ、そして、播磨国御着城主小寺政職(まさもと)の養女となって、同家の有力家臣として台頭していた黒田職隆(もとたか)に嫁ぎました.。

結婚の翌年、彼女は15歳で長男万吉(後の官兵衛)を産んでいます。

因みに官兵衛の他に、彼女は職隆との間に、一男二女を儲けていますが、8歳違いの同母弟利隆(としたか。利高とも)は、黒田家臣団精鋭部隊の黒田八虎の筆頭としても知られています。

和歌などに秀でた教養の高い女性でした。官兵衛は、母岩の影響を強く受けて和歌、連歌などを身につけていました。彼女が28歳の若さで亡くなています。

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枝吉城
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神本神社の上の台地に枝吉城石碑があります。
神社
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遺跡があります
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吉田資料館
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枝吉城(枝吉4丁目7)は、明石氏によって室町時代中頃(1500年ころ)に築かれた城で、明石川西岸は人口も集中し発展した土地でした。1585(天正13)年、城主となった高山右近重友が、船上城を新たに築き移った事により廃城となりました。
船上城(ふなげじょう)
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明石の城と言えば、JR明石駅のホームから見える城を思い浮ばれると想像しますので、その歴史を紹介しておきます。

1617(元和3)年、信州松本城主より明石藩主となった譜代大名:小笠原忠真は、船上城に入城した。そして、同年に2代将軍徳川秀忠の築造命令により、小笠原氏10万石の居城として城郭を建設しました。天守閣は、建設されませんでした。その時に城下町の町割りをしたのが宮本武蔵 だったと「播州明石記録」に記載されています。

明石城

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明石櫓石垣
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枝吉城地図は
  こちら



豊臣秀吉の軍師としての黒田 官兵衛の生涯を書いた本として有名なのが司馬遼太郎の『播磨灘物語』があります。播磨灘は、兵庫県の南西部(播磨の国)の沖合いを言います。

播磨灘に沈む夕陽
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