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2013年12月

2013.12.22

ルミナリエ2013

ルミナリエは、16日で無事終了しました。

神戸大震災の時からはじまり、今年で19回目です。来場者は、約354万人


平日でしたが、入り口に来るまで約30分かかりました。
やっと見えてきました。
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だんだんと近づいてきました。(クリック拡大)
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目の前です。(クリック拡大)
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街にあったサンタクロースとツリー
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今年も残り数日です。、


2013.12.18

城たびブロガー訪問記10 (黒井城 野村城)

城たびブロガー訪問記もこれが最期です。

担当エリアの丹波市春日町にある黒井城と野村城を紹介します。


黒井城
JR黒井駅から徒歩約10分で登山口まで行けます。
別名を保筑城、保月城とも呼び、猪ノ口山(標高365M)にある山城です。黒井城は、1579(天正7)年8月、明智光秀大軍のまえに落城しました。城跡は、400年の風雪に耐え、戦国時代~織田、豊臣時代にかけての城の様子をそのまま残しています。

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 「え~~~ 写真これだけ、頂上の本丸跡とか郭、石垣など見たいですよ」

 「すみません、写真これだけなんです。今回は、登山道もあって城跡も整備されているようなので、私も登って見たかったです。しかし、兵庫県から招待された城たびブロガーとしては、できるだけ沢山のお城紹介したいので、次の野村城に行くために、残念ながら登城する時間が無いのです。野村城はちゃんと写真とってきますから。」

こんな事情で、写真は少ないので、城の歴史を紹介します。

1335(建武2)年に、この辺りの領主:赤松貞範が山頂に砦を築いたのが始まりです。
その後、城主の変遷があって、1554(天文23)年正月2日年賀の席で、萩野直正が黒井城主荻野秋清を刺殺して黒井城主となり、悪右衛門直正と名乗り丹波の赤鬼と恐れられました。そして、現興禅寺に下館を設け、黒井城の整備に着手して現在の城ができました。
八上城主:波多野秀治(篠山)と共に、丹波平定を目指した明智光秀軍の猛攻を何度も退けましたが1579(天正7)8月、光秀軍の総攻撃についに落城しました。
(参考資料:丹波市教育委員会発行パンフレット)

登山口にある稲荷神社   下館(興禅寺)
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JR黒井駅前の石碑
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野村城
春日支所で教えていただいたので、ほぼ場所は分かりました。その場所に着いてみると「なに、何処にあるの???」それらしい場所は、田んぼばかりです。もらった地図の場所を車で行ったり来たりしますが分かりません。田んぼで働いている人に聞きました。

「この辺りにお城跡ありますか」

「そこや」  「え???どこ」
「そこにお地蔵さんあるやろ、そのむこうや」 「田んぼばっかりですが」

お地蔵さんのまわりをぐるるっと回って見るとありました。城あとの土塁です。

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高い山が黒井城
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城跡西北角にある八幡神社・公民館   お地蔵さん
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築城年代は不明、黒井城の支城として野村氏が3代続いて居城する記録はあります。しかし、黒井城が落城すると同時にこの城も廃城になったと思われます。現在は田畑となっているが、土塁の一部が残っており、方形状の平城でした。北西隅に木寺公民館と八幡神社があって、現在は、公民館の敷地の一部のようです。
土居の内(篠山市)の構えと似ています。土塁は、東と南しかありませんが、400年以上も過ぎているのに見事に残っていて、北西隅の八幡神社は、いつの創建かわかりませんが、守り神のようです。

城跡の写真をついに写しました。fullfullfull


野村城の地図は   こちら



城たびを終えて感じたことは、
この辺りは、廃城となった山城が多く残っています。ほとんどが織田信長の丹波平定攻めで、明智光秀軍によって滅ぼされ、その後、江戸時代となり、山城はその役目を終え、廃城となりました。
天下を取った徳川家康は、篠山に新しく城を造り、豊臣、西国大名への備えを強化し、信長が攻め滅ぼし支配下に置いたこの地域の柏原に、織田家に小さな藩を持たせました。家康のしたたかな統治思考を見る思いがします。


城たびブロガー訪問記は、これで終わりです。
 
ながらくお付き合いくださり、ありがとうございました。

(._.)アリガト  さんくす♪(o ̄∇ ̄)/  (/ ^^)/アリガトネ

このブログが公式HPに掲載されています。お暇なら下のバナーをクリックしてください。

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2013.12.15

城たびブロガー訪問記9 (春日局の興禅寺)

柏原を出て黒井城、野村城のある春日町に13時に着きました。carcarcar

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訪問地は、黒井城、野村城&興禅寺です。とりあえず黒井駅に行けばパンフレットでもあるだろうと思い、黒井駅前に行くと黒井城と春日局:おふくさんの銅像がありました。パンフレットでもあるだろうと中に入りましたが何もありません。若い駅員さんが一人おられたので、観光案内所はありませんかと訪ねたら、「近くに丹波支所があるのでそこで聞かれたらどうですか」との返事。

黒井駅traintraintrain
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黒井城(右方向の山)と春日局の像(黒井駅前)
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丹波支所観光振興課へ行きました。ブロガーパスを見せて黒井城、野村城、興禅寺への道を聞いたら、仕事中なのに、窓から黒井城と興禅寺への道筋を詳しく教えてもらいました。小さな町の道は、うっかり入ると戻るに戻れない迷路に入ってしまう事があります。黒井城の山裾にある町は、黒井城の城下町として発達したのでしょう。ここは、分かったのですが、問題は野村城です。建物があるわけでもないお城跡ですので、観光振興課の人もよくご存じではなかったです。しかし、さすがに観光振興課の人です、場所近くの方に電話で聞いて、詳細地図までプリントしてくださいました。(おかげで行くことができました)


丹波支所
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歴史民俗資料館  郷土資料館(丹波支所内)
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春日局の出生地である興禅寺

興禅寺は、黒井城の下館でした。1579(天正7)年、赤井直義が城主の時、明智光秀に攻められ落城、のち、斎藤利三が黒井城と下館を中心にこの地を治めました。落城した年:1579(天正7)年にお福(父は斉藤利三)が生まれ3歳まで居住しました。小早川秀秋の家臣:稲葉正成の後妻となり、その後、徳川家光の乳母で、大奥の礎を築き統括した春日局です。1643(寛永20)年、死去、享年64。

『稲葉家・御家系典』には、
【春日局を御乳母となし、局頭と称して春日局と号す。これすなわち、丹波国氷川郡春日井庄の生所をもってこの名をなすという。】と記載され下館が生誕の地ではないかと推定されている。
(参考資料:Wikipedia)


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黒井駅前のおふく像





興禅寺
高石垣と水濠で囲まれていて、長さは約80メートルの水濠は「七間堀」と呼ばれており、石垣の高さは約5m程で、黒井城と同様の「野面積み」です。もとが城の一部であったため、お寺と言うよりお城です。

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(クリック拡大)
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本堂  
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鐘楼    山門
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おふく腰掛け石
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おふく産湯井戸
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春日局出生地     出世聖観音
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春日町地図は  こちら


公式HPに掲載されました。
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2013.12.13

城たびブロガー訪問記8(柏原城下町)

東西400M、南北200Mほどの織田家ゆかりの小さな城下町、細い路地を歩いていると、歴史スポットが点在します。ゆっくり歩いて廻っても3時間くらいでまわれます。天下を目前にした信長の志は、どこにあるのと思いながら、時の流れを感じて散策してみると、麦わら屋根の家が突然出てきたりして、頭の中は江戸時代にタイムスリップしています。


太鼓やぐら(クリック拡大)
江戸時代に建てられた三階建ての櫓です、藩主が参勤交代で江戸から帰られた時や、登城の合図などに打ち鳴らされました。(内部見学は不可です)
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町の真ん中 櫓の上で つつみ太鼓が 昼寝する
野口雨情作 柏原小唄一節です (たいこ櫓の前にあります)
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八幡神社
鳥居 本殿 三重塔が縦に並んでいます。
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本殿
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三重塔
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八幡神社入り口    階段
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丹波市役所柏原支所  前に木の根橋があります。
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木の根橋 
天然記念物  名前通り木の根っこが橋になっています。 
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やぐら公園
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町並み
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麦わら屋根の家が残っています
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歴史民族資料館  田ステ女記念館(でんステじょ)入館料 200円 (ブロガーパスで無料入場です)
織田家の資料展示、 俳人田ステ女家の資料展示
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田ステ女像(田ステ女記念館の横にあります)
雪の朝 二の字二の字の 下駄のあと
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2013.12.11

城たびブロガー訪問記7 (柏原藩陣屋跡など)

柏原町(かいばらちょう)は、織田信長の子孫が治める小さな城下町です。

1598(慶長3)年、織田信長の弟:信包(のぶかね)がこの地の藩主(3万6千石)となった後、三代52年続きましたがいったん途切れて天領となりました。
1695(元禄8)年に信長の次男:信雄の孫:大和郡山城主信休(のぶやす)が二万石で移封されてきました。それ以降、10代にわたり1871(明治4)年まで織田家によって治められてきました。

柏原の地には、城は築かれず藩主は、陣屋に居住していました。
徳川幕府は、徳川に対抗した豊臣家は、完全に滅ぼしましたが、織田家は存続させました。しかし、織田ファンは多く、織田家の力が大きくなるのを恐れて、つぶしてしまうのでなく、山間の小さなこの場所に閉じ込めてしまい、近くに徳川有力大名が城主の篠山藩を置き、監視を続けたのでしょう。生かさず殺さずの扱いだったのではないでしょうか。




柏原藩陣屋跡
信休が入封直後は、藩邸もなく、民家に仮住まいしていました。入封後20年を経た1714(正徳4)年に陣屋を造営しました。当時の陣屋は、隣の柏原総合庁舎を含んだ広大な敷地に表、中、裏御殿のある主屋や台所が造られていました。現在の陣屋は、1820(文政3)年に再建された表御殿の一部です。1858(安政5)年、陣屋北西隅に藩校:崇広館(そうこうかん)が建てられました。廃藩置県で廃校となりましたが、明治6年に崇広小学校へと引き継がれました。
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長屋門
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柏原藩陣屋復元模型(クリック拡大)
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織田神社 (三代目藩主:織田信勝が祀られています。)
信勝は、8歳で藩主となりましたが、28歳の若さで亡くなりました。
跡継ぎがなかったためにこの時に、一時お家断絶となりました。
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建勲神社 (織田信長が祀られています。)
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柏原町地図は こちら

2013.12.09

城たびブロガー訪問記6 (柏原町 夕食・宿泊)

18時に柏原に着きました、泊まるホテル;丹波グリーンホテル松風の近くに来てる積もりですが、ホテルがわからない。ボーリング場の駐車場をお借りして、車停車、 ケイタイかけました。
「そこから、コンビニがあって、その先にホテルのネオン見えませんか」


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部屋は、こじんまりしていますが、清潔で寝るだけですから十分です。


城たびでは、割引特典のある宿泊施設が紹介されていますが、篠山・丹波エリアでは、該当施設がないので、ネットで調べて、柏原町観光に便利そうなのでここに決めました。

夕食は、特典一覧に載っている鹿肉専門店 無鹿(むじか)さんに行ってみようと思って、車で探しましたが、真っ暗になって、城下町の名残のある暗い路地を探しましたが、全く分からず、車一台通れるだけの路地は、途中で行き止まりになったり、車が来ると家の軒先に入って避けたり、事故起こす前に探すの止めました。

鹿肉専門店 無鹿さん(翌日、町散策中に見つけました)
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町を一周したらそれほど広くないので、車をホテルに置いて、徒歩で食事場所探します、寿司さん、焼き肉店、ラーメン屋などありますが、ファミレス、牛丼やなどは見当たりません。こんな時は、駅に行くのが一番です。JR柏原に行くとありました、「レストラン 山の駅」。入ってびっくり、男子高校生が20人ほどたむろして居ます。電車の時間待ちなのか、けっこうおとなしく食べたり、本読んだり、やっぱりケイタイが多いです。
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昼間の柏原駅
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さて、柏原の「お・も・て・な・し・」料理は、
どれが美味しいか  「いつ聞く」  「今でしょう」

丹波産ポークは美味しいとありましたので、この辺りの名物料理なのだろうと
丹波ポークの串カツ定食 ¥1200を注文しました。
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出てきてびっくり、
「(またまた) じぇじぇじぇじぇ  想像を超えた倍返し風どでか大串でした」 

こんな大串はじめて、味もよしで、満腹、後から入って来た人も同じもの注文していました。
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丹波牛は有名で、神戸ビーフとして神戸で売っている牛肉の大元は、この辺りの牛なんです。


ホテルに帰って、今日の疲れを癒やすため、チョット窮屈な風呂に入って、明日の予定を調べて、就寝です。

7時半に目が覚め、朝食は、ホテルでモーニングが出ます。
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宿泊客はビジネスマン風の方が多いです。

9時にホテルを出て、まず観光案内所に、観光のポイントと地図をもらいました。
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いよいよ、織田信長の弟が初代藩主となった柏原藩城下町の散策です。

柏原町地図は  こちら

2013.12.07

城たびブロガー訪問記5 (篠山市の細工所城 八上城など)

土居の内から、細工所城へ向かいました。ここも大体の場所は、分かるのですがここと言うポイントでは、分からないので地元の人に聞いてみることにしました。
コンビニで腹ごしらへ用のパンとコーヒーを買って車内で食べながらどこで聞こうかと思案、

「いつ聞く」  「今でしょう} 

とコンビニに再び入って、店員さんに聞くも「知らない」とのつれない返事、当然でしょう。山城ですので、興味の無い方なら知らないのが当然です。すると、お客さんが、「この裏側にお城の跡があるって聞いた事あるよ」 神の声です。



細工所城(さいくしょじょう)
1550(天文)年ころ、八上城(近くにあります)の波多野秀治に属し、「丹波の荒木鬼」と恐れられた荒木山城守氏香氏の居城です。標高400Mの山に、約900㎡の本丸をもつ山城で、荒木城、井串城とも呼ばれています。1577(天正5)年、明智光秀軍の猛攻を受け落城しました。明智勢が大砲を撃ったという鉄砲丸と言う峰があるらしいです。

この辺りの山が細工所城跡です。
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「え~~~、これで終わり??? せめて、石垣とか土塁とかないの???」

weep「すみません、そんな写真ほしかったのですが無いんです」

と言うわけで、この先は、写真一枚しかない、いい訳です。


こんな標識が建っていましたので、楽勝とばかりに車を山の方に進めましたが、
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think「城跡へは、どこから入るの???」
   キョロキョロしてると女性がおられて聞きました。
   私の顔を見て、不安そうに
bleah「あそこやけど、ついていってあげるは」
   あそこって何処、道らしいものありません。

民家の裏に竹で造られた階段がありました。昇ると
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小さな平地、次は、

じぇじぇじぇじぇ この岩壁昇るの???無理無理」

時間も無いし、断念して写したのがが上の山の写真です。





八上城(やかみじょう)
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篠山城から見た八上城
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angry 「ここも手抜き、城たびブロガーなのに山だけ」

weep 「もう薄暗くなってきました、時間ないんです、すみません」

八上城 
高城山(460m)および西隣の法光寺山(340m)に位置する、中世山城の典型的特長を伝えています。屋敷跡、尾根に並んだ郭跡、二の丸、本丸跡など多数の遺構が残っているらしいです。
(後で調べました。こんな所絶対見たいです。)

石見の人とも言われている波多野稙通が応仁の乱[1467(応仁元)年~約10年の戦い]にて戦功をあげ、1515(永正12)年に多紀郡郡代に就任した際、築城したのがはじまりです。16世紀前半には高城山頂に八上城を本城として築く。その後、城下は中心部を奥谷から街道沿いにあった八上に移した。

1575(天正3)年に織田信長の命を受けた明智光秀による攻略が開始され、11度におよぶ戦いの後に、
明智の倍返し作戦 兵糧攻め」にあい、1579(天正7)年に落城。波多野氏は滅亡しました。
※井上靖の『戦国無頼』の後半はこの落城時を舞台としています。

1606(慶長13)年、松平康重(家康の実子)が入封したが、篠山城を築城したため八上城は廃城となった。
(参考資料:Wikipedia)






法光寺城跡
八上城の直ぐ西側に位置する、法光寺山(標高約344m)の山頂に本郭群を構えていて、八上城の支城です。
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法光寺と八上城落城に付いての謂われ(クリック拡大)
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城跡の石垣や土塁など城跡を示すような写真が無くてすみません。coldsweats02coldsweats02coldsweats02

本当は、時間が無いのではなく、山登りが苦手なんです。

【反省】山城に行くときは、城跡見物に行くなんて気楽な気持ちで無く、道無き山を登る位の覚悟と時間と装備が必要です。



この辺りの城は、明智軍によって攻め滅ぼされたようで、明智軍の強さを物語っています。


細工所城地図は  こちら 


八上城地図は  こちら

2013.12.05

城たびブロガー訪問記4 [土居の内(篠山市)]

土居の内(どいのうち)
中世の名主か豪族の家、いつ戦に巻き込まれるかわからない、いつ山賊に襲われるかわからない時代に、家を守るために堀を巡らせ、土手を造って外敵の侵入を防ぐためにこのような防御をしたのではないかと思われます。お城の原型のような気がします。
※中世とは、平安時代末期(1160年代ころ)~戦国時代末期(1590年代ころ)
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入り口にある案内板
天正のころ・・・・1573~1592年織田信長、豊臣秀吉の時代
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人が住んでおられますので、中に入るのは、遠慮しました。
東側から    裏側
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この場所に行くのには、説明書きでは、地図にあるとありましたが何もありません。しかし、大体の場所は、見当がついたのですが、それらしい現場についてみると民家が点在してあとは田んぼ、その場所がどこかは分かりません。適当に車を走らせていると郵便局があったのでここなら知っている人居るだろうと聞いてみました、

局長さん 「聞いたことはあるが行ったことはない。南に下がって神社の前を右に行く、そこをもう少し進んで左に入ったあたりですよ」

おおよその場所の目星がつきました。言われたとおりに車を走らせると神社があり、そこを右に曲がってもう少し進んで、適当に左に曲がって田んぼの中を進むと川につきあたり、行き止まり。

「え~~~、ここバックするの、じぇじぇじぇじぇ」

家が数軒あると思ったのは、田んぼの中の小屋、倉庫でした。近くには人がいません。見渡すと遙か遠くの田んぼの真ん中に人がいました。神の助けと細い道を慎重に走らせ、その人に声をかけました。

coldsweats02 「すみません、この辺りに土居の内と言う所はありませんか」
wobbly 「それならあの向こうに見える三角屋根の家だよ」
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と言うことでなんとかたどり着きました。( ̄▽ ̄) (v^ー゜)ヤッタ!!

史跡巡りをしていると帰ってきて資料を見てるとこんな所に書いてあると、後で分かること多いです。今回も、別の地図調べているとありました。


一応、道案内をしておきます。
北から行く場合、畑の郵便局を南へ→佐佐婆神社を右に曲がります。約500M進むと右手に大淵公民館:前に「乗り合いタクシーのりば」の案内標識あり→そこを約50Mほど進んで左に曲り、道なりに100Mほど進んで又左に曲がるとそこが土居の内です。
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大淵公民館 進んで左折
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「こんなん道案内、誰が興味あんねん・・・・・」 


佐佐婆神社(ささばじんじゃ)
  佐々婆神社の創建は古く、「延喜式神名」[927(延長5)年当時の全国神社一覧]にその名が見られます。
祭礼は篠山三大祭の一つで、毎年10月の第1土曜と日曜に決められている。宵宮祭には、各集落から10基の山車と、太鼓御輿7基や金御輿3基が次々と宮入し、境内を所狭しと練り、華やかな祭典が行われる。 本宮祭には、御輿や山車の行列延々と続き、御旅所の若宮への渡御がある。 還御が終わると、最後に「流鏑馬」の行事が行われ、長い境内の3カ所に設けられた的に馬上から3本の矢が射られます。 
(参考資料:Wikipedia)

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土居の内地図は こちら
兵庫県篠山市大渕字家中

2013.12.03

城たびブロガー訪問記3 篠山武家屋敷群

お城を出て、観光案内所で地図をもらって、御徒士町(おかちまち)武家屋敷群へ。江戸時代の武士の屋敷がそのまま残っている場所です。

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青山歴史村
ブロガー特典で入場料300円免除。
青山家は、9代忠成が家康の小姓を勤め、1590(天正18)年相模国高座群(神奈川県)に5千石を与えられ、その後、次々と加増され、1748(寛延元)年に篠山藩主となり、明治までの120年間(6代)、篠山城主を務めました。
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(クリック拡大)
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長屋門  資料館
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青山家 家紋入り瓦
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御徒士町武家屋敷群
外堀に面して上級武士の屋敷があって、その西に通る御徒士町(おかちまち)通りには下級武士(藩主の警護役)の屋敷が建てられていました。
(紹介文クリック拡大)
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御徒士町通り
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安間家住宅(あんまけ)
ブロガー特典で、入場料200円は免除。
藩主:青山家の家臣であった安間氏の住宅で、標準的な武士の住宅です。禄高は「高12石3人扶持」。母屋は、間口6間半(約13M)、奥行き7間半(約15M)、裏に倉があります。ほぼ完全な形で残ってます。

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家自体は、小作りな感じを受けましたが、当時の人の体格からいったらけっこう広く、母屋面積:約131㎡、敷地面積:約1,215㎡あります。現在の一戸建て住宅の平均が130㎡(約40坪)ですから、今なら相当な豪邸です。
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水琴窟(すいきんくつ)
江戸時代に考案されたもので、地中に伏甕(ふせがめ)を埋め、そこに落ちた水の音が美しい音色に聞こえる仕組みです。庭にこんなものを造って、生活を楽しんでいた、平和な時代だったのでしょう。
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小林家長屋門
(お堀の周りの上級武士の住宅で、門構えだけでも相当立派なものです。)
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西堀  南堀
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駐車場塀  大正ロマン館
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篠山城周り地図は  こちら


ささやまさんぽ  こちら


2013.12.01

城たびブロガー訪問記2 篠山城

最初の訪問地は、篠山城です。神戸から車でゆきましたので、約1時間30分ほどで、到着です。

篠山城は、1609(慶長14)年、徳川家康が、新城の築城を命じて造られたお城です。これは、山陰道の要衝である丹波篠山盆地に城を築くことによって、大坂の豊臣氏をはじめとする西国諸大名のおさえとするのが目的であったとされています。

篠山盆地中心部の丘陵である笹山を築城地と定め、藤堂高虎が縄張を担当した。普請総奉行を池田輝政が務め、15か国20の大名の助役による天下普請により約1年で完成しました。

初代城主は家康の実子:松平康重。松平三家八代、青山家六代といずれも徳川譜代の大名に引き継がれ、篠山藩5万石の拠点としてその役割をはたし明治まで続きました。
<参考資料:篠山城大書院パンフレット)




篠山城大手門
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大書院
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篠山城絵図(クリック拡大)
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篠山城模型
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大書院には、入場料400円が必要ですが、ブロガーパスポートを見せると「ブロガーの方ですね、どうぞ」と言われ入ることができました。他の観光客の方から「そんなのあるんですか」とうらやましがられました。
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大書院大広間
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大書院説明(クリック拡大)
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大手門石垣
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二の丸跡
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裏門
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紅葉の間から大書院(クリック拡大)
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天守台に天守閣は造られませんでした とんがった山が八上城
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天守台説明(クリック拡大)
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本丸跡
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本丸説明(クリック拡大)
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本丸北にある井戸
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本丸跡に建てられた青山神社
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青山神社説明(クリック拡大)
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梵鐘
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梵鐘説明(クリック拡大)
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徳川家康が、新しく造った城だけあって、城の構えから城下町まで今でも残っているところが多いです。一日、ゆっくりと町を散策するだけの見るところの多い篠山の町です。



篠山観光情報は こちらから


篠山市地図は こちらから

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