明石と宮本武蔵
1617年7月〔元和3年(げんな)〕、小笠原忠真(ただざね)が信州松本から明石に国入りする。義父の姫路城主本多忠政と相談し人丸山に新城を築く。
その時、町づくりに本多忠政の長男忠刻(千姫の夫)の客臣宮本武蔵が姫路から明石に来て小笠原家の客分となり、明石の町割りをしました。(播州明石記録)
お茶屋
大滝
小滝
宮本武蔵
武蔵は、明石滞在中に、自分の剣に「円明流(えんみょう)」という流名をつけています。円明は、月の名所である明石の月からきています。
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1617年7月〔元和3年(げんな)〕、小笠原忠真(ただざね)が信州松本から明石に国入りする。義父の姫路城主本多忠政と相談し人丸山に新城を築く。
その時、町づくりに本多忠政の長男忠刻(千姫の夫)の客臣宮本武蔵が姫路から明石に来て小笠原家の客分となり、明石の町割りをしました。(播州明石記録)
お茶屋
大滝
小滝
宮本武蔵
武蔵は、明石滞在中に、自分の剣に「円明流(えんみょう)」という流名をつけています。円明は、月の名所である明石の月からきています。
菅原道真が九州に流された時、須磨で休憩しました。道真の死後[979年(天元2]、その地に創建されたのが網敷天満宮(つなしき)です。地元では須磨の天神さんと呼ばれ、学業成就、受験合格にご利益があると言われており学生さんが祈願に訪れています。
兵庫県神戸市須磨区天神町2-1-11 (地図)
道真の名前がついた官公橋(JR塩屋駅東)
九州に行く時、明石の駅家(うまや)の駅長が、塩屋まで迎えに来た伝説をもとに、昭和8年にJR線路の上に橋を作った時、「官公橋」と名づけました。左は山陽電車で、右がJRです。海のすぐ近くを通っており、菅原道真の平安時代は、海岸の砂浜を歩いて通ったと思います。
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学問の神様として知られる菅原道真公に関連した休天神社を紹介します。
901(昌泰4)年、政治改革をしようとした道真は、藤原氏と対立して敗れ、大宰権帥に左遷される。大宰府への旅の途中で、道真公が讃岐守だったときに会った明石の駅長(うまおさ)の出迎えを受けます。
903(延喜3)、大宰府で公が亡くなったということを聞いた明石の駅長が、菅原道真公を祀る祠を建てたのが休天神社の始まりといわれています。江戸時代の1673(延宝4)年、この祠は明石城主・松平信之の手によって神社として祀られるようになりました。(享年58歳)
兵庫県明石市大蔵天神町2-7(地図)
塩屋(神戸市)からは明石駅家(うまや)の駅長(うまやのおさ)が案内したことを記した碑が「管公旅次遺跡碑」として建てられました。
駅長そんなに驚くことはないぞ、時勢が変わり今や私が配流の身になって落ちていくことは、春に咲き、秋に落ち葉するように、人の世の栄枯盛衰もまた同じなのだから
太寺2丁目バス停前(地図)
学問の神様として受験生が神頼みにお参りしています。
ウオーキングしている海岸の日当たりのいいところに野良猫がいつも集まっています。
けっこう太っていますので、食べるのには困ってないみたいです。住宅地まではけっこう離れているのに、どこで食べているのでしょうか。
今日は、4匹ですが、多い時は、6匹くらいが集合しています。
野良ネコの合コンなんでしょうか。なかには、できあがったカップルもいます。