舞子ビラは有栖川親王の別邸でした
有栖川宮熾仁親王(ありすがわたるひとしんのう)が1888年(明治21年)に現在地の舞子柏山(または烏崎(からさき)と呼ばれた)に避暑で来訪。ここからの景勝をいたく気に入った熾仁親王はこの地を買い上げ、その後1893年(明治26年)に別邸の建設を開始した。別邸は1894年(明治27年)に竣工するが、皮肉にも同年暮れに熾仁親王は広島大本営で腸チフスを発症し、この別邸で静養することになる。明けて1895年(明治28年)1月、熾仁親王は舞子別邸で薨去されました。(享年:61歳)
1966年(昭和41年)に神戸市が買収し「市民いこいの家 舞子ビラ」となり、阪神・淡路大震災では既存施設が損壊被害を受け、本館の建設と同時に修繕が進められた。1998年(平成10年)9月に現在の経営体制で再開業した。
有栖川親王は、17歳の時に孝明天皇の妹・和宮親子内親王と婚約したが、公武合体策の一環として和宮親王が将軍・徳川家茂と結婚されることになったため、婚約を辞退されています。1868(慶応4)年、薩長の度重なる挑発に対し幕府軍はついに戦端を開き(鳥羽・伏見の戦い)、ここに戊辰戦争が勃発する。このとき、熾仁親王は自ら東征大総督の職を志願し、就任されました。
新政府軍の総大将として、元の婚約者:和宮親王と対峙し、西南の役では、ともに戦った西郷隆盛とも戦う皮肉な運命にあった方です。
(参考資料:Wikipedia)
山崎豊子さんは、「白い巨塔」の中で、舞子ビラについて次のように書いておられます。
(以下、白い巨塔から)
車は何時の間にか垂水を過ぎ、舞子海岸に入ると、窓の外に淡路島がすぐ目の前に見えた。明石海峡がそこで急に狭まっているためであるらしかった。なだらかな稜線を描いて海に浮いている美しい島影に眼を奪われていると、車は海岸沿いの道から右にそれて、山側に向かって坂道を登って行った。木立が深くなり、陽の光が遮られた鬱蒼とした坂道を登り詰めると、その丘陵の先端に、「舞子ビィラ」と呼ばれる元有栖川宮別邸であったホテルが建っていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・
「じゃあ庭に出よう、松の形が面白いんだ」
・・・・・・・・
紺碧の海が拡がり、海を隔てた真向こうに淡路島が見え、島と海と庭が
渾然と溶け合うような美しさであった。
↑明治時代と↓現在の有栖川邸(舞子ビラ)から見た明石海峡の景色です。
皇太子の青春より