« 2006年5月 | トップページ | 2006年7月 »

2006年6月

2006.06.28

デジカメ教室

 PC教室の生徒さんからデジカメがわからない、デジカメやってみたいの声が出てきましたので実施することにしました。デジカメを持っておられる方もありますので使い方がわかったり、デジカメを理解してもらえればいいなぁと考えて検討にはいりました。

 実験的にスタッフの皆さんを対象に各自のカメラを持ってきてもらってその使い方をアドバイスすることにしましたが、実際にやってみると会社が違い、買った年月が違うと手順やアイコンが違って説明に時間がかかりました。

 この方法は無理なので、こちらで分かるカメラを指定して「デジカメ体験会」ということにしました。

使用カメラは、
Ixy600Exz5747
       キャノンIXY600               カシオEX-Z57

参加者は、12名。手持ちのカメラ持参の方が半分ほどおられました。

【プログラム】
1.使用カメラの説明
2.オートでの写し方(手ブレに」注意 シャッターの押し方 構え方など)
3.再生の仕方
4.カメラ裏のアイコンの説明 使い方
5.キャノン=シーンモードで写す  カシオ=ベストショットで写す
 
  ここまでは、カメラを実際に操作してもらって体験してもらいました。

6.その他、パソコンに画像を送る プリントなどは説明だけ
7.どんなデジカメがいいか。

1:30ほどの時間で、あとはお茶を飲みながらの質疑応答

参加した皆さんの声は、アイコンの意味がよく分かった。
どうさわっていいのかわからなかったが、オートに設定してシャッターを押せばいいので
写せる気がしてきた。
触るのが怖かったが、ちょっとそうでも無くなった。
などなどです。
女性は、PCでもそうですが、触るのが怖かったといわれる方が多いです。
しかし、PCでもデジカメでもドンドンと触っていかないと上達しません。
「少し怖くなくなった」と思われるようになっただけで大成功でした。

キャノンとカシオでオートで写した朝顔の写真を比べてみました。
4545_1

        キャノン                      カシオ


2006.06.23

朝顔 第1号

突然に花が咲きました。見本にあったようなピンクの模様で直径:8cm

0623


2006.06.22

岡山・倉敷ぐるりんパス

Photo_2
JRの駅で「岡山・倉敷ぐるりんパス」のパンフレットを見て12,000円で岡山と児島で瀬戸大橋観光船まで乗れるとありましたのでこれは安くて行きたかった「備中高松城と岡山城」を見て瀬戸大橋周遊船で夕暮れの瀬戸大橋見物そして温泉にはいいってこようと思い立って行く事にしました。

6月8日、神戸を7時に出発して吉備津神社~高松城に到着後、史跡の見学、昼前から雨が降り出したのでとりあえず岡山まで行く事にしました。岡山に着いた頃には、雨は本降りになり午前中歩き回ったつかれとで瀬戸大橋見学は中止して岡山城と後楽園を廻って夕方岡山駅前で一休みして帰路につきました。

結局、これだけ廻っただけなら9000円くらいですんだので12,000円のぐるりんパスは3000円捨てたようなもんでした。よく調べていかないと衝動買いは駄目ですね。しかし、1泊して倉敷も廻り、児島まで行って瀬戸大橋観光船で瀬戸内海の夕陽も見れば安くて旅行ができます。


40_4
吉備津神社 桃太郎伝説のある神社です。







47_2



備中高松城跡
秀吉が城の周りに堤防を築き水攻めで落とした城



Photo_3













清水宗治  高松城主 
秀吉軍に攻められ、自分の首を差し出すことで兵5,000の命を救った
宗治の死を見届けたあと、秀吉は明智光秀討伐のため中国お大返しをした


Photo_6
岡山城 秀吉が中国攻めに使った城 
宇喜田秀家が1597年に築城した。
別名:烏城(うじょう)とも呼ばれています。

Photo_5








月見櫓 第二次大戦で天主閣は消失しましたが、築城当時の唯一残っている建物



40_2 47_3
後楽園  岡山城がすぐ近くに見えます

2006.06.21

朝顔

40_1

朝顔につぼみが咲きました。見た感じは弱弱しいです。

Nifty

昨年、「ありがとう」のメッセージをだした豆は完全に枯れてしまいました。

2006.06.10

4日大河「光秀転落」

清水宗治の備中高松城は三方を山に囲まれた湿地帯の中に築かれていたため、通常の陸地での戦い方は通用しない。そこで秀吉は、高松城を攻めあぐねた末に水攻めを実行する。城の周りを堤底22m、高さ7mの土手を約3000mほど築いてその中にせき止めていた川の水を流し込む、時は5月、梅雨時の雨の降る中、工事は12日で完了し、水が流し込まれると高松城一帯は沼のようになり城は水の中に孤立してしまった。

現在の高松城は、周りには家もあまりなく田んぼの真ん中にあります。水はけがよくなく城跡の周りには蓮が茂っています。47_1_247
約20mほど残っている堤跡








信長「朝廷はもういらぬ、わしがこの国の王だ」

家康の接待役を仰せつかった光秀の対応に怒りをあらわした信長は
「直ちに備中の援軍に参れ、そして後、中国の出雲と石見を切り取れ、両国を与えるよって丹後・近江は召し上げる」   光秀の心に信長殺害を決めた瞬間だった。

5月27日、出陣を前に光秀は、愛宕山に登った。〔1587年(天正10)年〕
「ときは今 あめが下しる 五月哉」

西国攻略の拠点:姫路城

秀吉が西国攻めのため1580(天正8)年に姫路城に入城した。その時にこの城を提供したのが黒田官平衛孝高(かんべいよしたか)であった。そして翌年、まだ小さな城であったのを3層の天主閣を完成させた。
1578(天正6)年に始まった三木城攻めに後方支援基地として使われていた。
秀吉は、三木城を攻めながら西の毛利方の先鋒:岡山城の宇喜田直家の説得工作を続け、又、1581(天正9)年因幡に兵を進め鳥取城の吉川経家(きっかわつねいえ)を滅ぼした。
このように秀吉の西国攻めは、姫路城を拠点にして黒田官兵衛が軍師として活動していました。

1600(慶長5)年の関が原以降は、徳川家康の女婿池田輝政が城主となり1601(慶長6)年から8年の歳月をかけて姫山に五層七階の天守閣を築き、現在の姫路城が完成しました。徳川方の西国の守りの要で輝政には実質100万石が与えられ「西国将軍」と呼ばれていました。Photo_147


2006.06.04

朝顔

朝顔の苗を買って来ました。水をやっていたら育ちそうなんで
あまり手間かけずに花が咲きそうです。
1株78円 7cm 右の写真が咲いた見本です。
Asagao30 Asagaomihon30_1Asagaomihon230

2024年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ

紹介ブログ