2016.08.17

国生み淡路島 4/6 おのころ島神社

おのころ島神社(自凝島神社)は、国生み神話のおのころ島と言われる場所の一つです。ここは、島ではありませんが、昔はこのあたりは、海だったと言われています。

 

淡路島地図
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おのころ島神社の大鳥居
高さ:21.7m  横:31.2m
平安神宮及び厳島神社と並び「日本三大鳥居」の一つに数えられる。
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凝橋からおのころ島大鳥居Photo





本殿
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八百萬神社
伊弉諾命・伊弉册命の御子神様を奉斎しております。
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鶺鴒石(せきれいいし)
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伊弉諾命・伊弉册命の二神様は、正殿前にあるこの石の上につがいの鶺鴒が止まり夫婦の契りを交わしている姿を見て、夫婦の道を開かれ御子様をお生みになられました。


御神木
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2016.08.16

国生み淡路島3/6 絵島

日本最初の島:おのころ島は、ここ絵島を指すと言われている説もあります。

淡路島の北端高速艇乗り場の近くにあります。
明石海峡大橋がまじかに見えます。

※おのころ島は、漢字だと『自凝島(おのころじま)』と書き「自ずから凝り固まってできた島」という意味です。

淡路島おのころ島地図
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絵島
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クリック拡大
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頂上に鳥居があります

平清盛が兵庫港築港の際に人柱となった松王丸を弔うために建てられたと言われています。
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昔から歌にも詠まれています(クリック拡大)
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2016.08.15

国生み神話淡路島 2/6 沼島 

日本列島の最初に造られたのはおのころ島だと古事記に書かれていますが、おのころ島は淡路島全体を指す説と淡路島の数か所にここがおのころ島だと言われるところがあります。

今回は、その中の沼島を紹介します。

淡路島地図
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沼島
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国生み神話(クリック拡大)
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伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉命(いざなみのみこと)の二神
天の浮橋に立って混沌とした大地をかき回して、矛の先から落ちたしずくが島になり、それをおのころ島と言います。
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神を祀った神社
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おのころ島を漢字で書くとこのようになり「自ら固まった」と言う意味です。25





長い階段を登っていくと神を祀った神社があります
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島の西の山頂に、おのころ神社はあります
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クリック拡大
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上立神岩(かみたてがみいわ)
天の御柱と言われています。
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沼島海岸船着き場(クリック)
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2016.08.03

国生み神話の淡路島  1/6

国生み神話の淡路島

人口 約17万5000人
面積 593k㎡(琵琶湖より少し小さい、シンガポールと同じ位)

≪ 地 図 ≫

 「古事記」や「日本書紀」に書かれている日本列島誕生のロマンあふれる神話は、 淡路島が、最初に造られたと記述されています。
 
人間が、生まれるはるか昔。神々は、天上の世界、高天の原(たかまがはら)に住んでおられ、下界を見て「地上を固め、治めよ」と男神イザナギと女神イザナミに命ぜられた。二人の神は「天の浮橋
(あめのうきはし)」から沼矛(ぬぼこ)で、下界を かきまわし、引き上げた沼矛から落ちた塩が積もって固り「おのころ島(淡路島)」ができ、次いで四国、隠岐の島、九州と島を生み、最後に本州ができました。
(注)沼矛とは、玉で飾った太古の刀

おのころ島の所在については、旧三原町のおのころ島、旧南淡町の沼島、淡路町の絵島、または、淡路島全体がおのころ島であるなど、いろいろの説があります。

おのころ島は、漢字だと『自凝島(おのころじま)と書き「自ずから凝り固まってできた島」という意味です。

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沼島(三原郡南淡町) ≪ 地 図 ≫

国生み神話で最初に出来た島と伝えられています。

上立神岩(かみたてがみいわ)などがあり伝説の島。

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おのころ島神社(三原郡三原町)≪地図≫

イザナギとイザナミを祭神とする。

鳥居の高さ・21.7m、間口・12.7m、柱の直径・3m。

平安神宮、安芸の宮島と並ぶ、日本三大鳥居

神社の西300mには、天と地を結ぶ「天の浮橋」

の遺跡があり、国生み神話ゆかりの神社です。

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絵島

淡路島の北東にあって、昔から風光明媚な所で歌にも読まれています。
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伊弉諾神社(津名郡一宮町)≪地図≫

イザナギ神社と読み地元では「いっくさん」と親しまれている。イザナギとイザナミの二神が祭られています。

日本書記によれば、国生みを終えたイザナギは、国の運営を子供の天照大神(あまてらすおおみかみ)に任せ、この地で余生を送ったと記されています。

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古事記による国生み神話

天の神の命令を受け、イザナギ(男神)・イザナミ(女神)の二神は、天の浮橋に立ち、天つ神から授かった天の沼矛 (ぬぼこ)を指し降ろして潮を「こをろこをろ(カラカラという音)とかき混ぜる。矛を引き上げると、矛先から潮が落ちて固まり、 島となった。おのずから凝り固まったのでオノゴロ島という。二神はこの島へ天降り、天の御柱(みはしら)と八尋殿(やひろどの)を 建て住みました。そして、  淡路の穂の狭別島(さわけしま・淡路島)を筆頭に、伊予の二名島(ふたなのしま・四国)、隠岐の三つ子の島(隠岐島)、 筑紫島(九州)、伊岐島(いきのしま・壱岐)、津島(つしま・対馬)、佐渡島、そして最後に大倭豊秋津島 (おおやまととよあきつしま・本州)を生んだ。これを大八島国(おおやしまくに)という。さらに六島〔吉備児島(きびのこじま)、 小豆島(あずきしま)、大島、女島(ひめしま)、知訶島(ちかのしま)、両児島(ふたごのしま)〕を生む。

(歴史読本 2002年4月号 飯泉〔いいいづみ〕 健司先生の文献より引用)

2016.07.04

玉造稲荷神社

玉造稲荷神社は、大阪城の南にあります。
この辺りは、約5千年前から人々が生活を営み、古代に勾玉を作っていたことからその名が生まれた。聖徳太子のゆかりの地であり、天下人:秀吉の大坂城築城では三の丸ができ、江戸時代は城下町として大坂・政治の中心地として栄えました。


(玉造小学校南:地図左上の拡大表示をクリック:)

 

玉造稲荷神社本殿
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大鳥居
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クリック拡大
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『日本書紀』に「玉作部(たまつくりへ)」の居住地として記されています。
玉造部とは大和朝廷に所属し三種の神器の「曲玉(まがたま)」などの玉製品を作る専門職の人達のことです。
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千利休井戸
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千利休顕彰碑
玉造禰宜町に千利休は屋敷を構えていた。
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お伊勢参りの出発場所であった。神宮まで170kと書かれています。
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近松門左衛門文学碑
近松門左衛門の「曾根崎心中」や「卯月の紅葉」などに玉造稲荷神社が多くの参拝者でにぎわっていたことが描かれています。
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仰向く顔に当る日を  神かざしの玉造
稲荷の宮居ここもまた  伊勢の内外の内平野町
「ひじりめん卯月の紅葉」より

あつき日に貫く汗の玉造 稲荷の宮に迷ふとの
闇は理(ことわり)御仏も 衆生のための親なれば
「曽根崎心中」より

2016.07.02

豊臣秀頼公 胞衣(えな)神社

大阪城と真田丸の間に玉造神社があって、その中に胞衣神社(えな)があります。


(玉造小学校南:地図左上の拡大表示をクリック:)

 

 

秀頼公と母・淀殿を結ぶ胞衣(えな 卵膜、胎盤など)が祀られています。
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秀頼公は、身の丈約197cmの大男で、豊臣家の後継者としての素養を身につけた人でした。
1607年(秀頼11歳)の時、千姫と結婚(秀忠と淀の妹であるお江の間に生まれた娘)
二条城で接見した徳川家康は、そのどうどうとした容姿を見て徳川家の将来に不安を覚え、豊臣家の滅亡を誓ったと言われています。

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秀頼公奉納鳥居
平成7年1月の阪神淡路大震災で根元が損傷しましたのでこのような形で保存されています。
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社伝によれば垂仁天皇(紀元前12年)時代に創建されたとされています。
大坂城の三の丸に位置し、その鎮守社として豊臣家から篤い崇敬を受けた。戦国時代の戦火で荒廃し、1603(慶長8)年に豊臣秀頼により社殿が再建されましたが、元和元年の大坂夏の陣で社殿は再び焼失しましたが、その後ふたたび再建されました。豊臣・徳川時代を通て大坂城の鎮守とされ、豊津稲荷社と称した。江戸時代には伊勢参りの出発点とされています。

2016.06.17

真田幸村が必勝祈願した鎌八幡 (5/5)

真田丸の西端は明星学園西の坂道になります。坂の頂上の鎌八幡に、真田信繁が必勝祈願に訪れた所です。

左上の拡大地図で別枠で拡大されます

西

 

明星学園の校門の前の坂道が真田丸の西端になります
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学校の横の坂道は、北から南に向かって登っています。
明星2

 

明星学園の北側の通りです。この辺りが、真田丸の北側になり,町名は空堀町で、真田丸の堀の跡を想像する名前です。
北通り

空堀町交差点
空堀

 

東西に通る道路名は、長堀通りで、大阪城の外堀だったと思われます。
長堀通り



明星学園の西側の坂を南に向かって登って行くと餌差町交差点に出,右手に鎌八幡があります。

 

鎌八幡 餌差町交差点西側の円珠庵の中にあります。
1614年10月(慶長19)の大坂冬の陣の時真田信繁(幸村)が、陣所内にて当時信仰を集めていた御神木に、「鎌八幡大菩薩」と称して慣例に習い鎌を打ち込み、必勝を祈願したところ、大いに戦勝をあげた(真田丸での攻防)と伝えられています。その後「悪縁を断つ鎌八幡」として信仰を集め、現在に至っています。
鎌八

鎌八名
石碑の右上に鎌八幡とあります


東~餌差町交差点~北へと堀が造られていたと思われます

交差点から東を向いています
東


交差点から南を向いています。江戸時代の地図ではこの辺りはお寺が多数建っていました。
南

餌差町交差点から北を向いています。右:明星学園
北


餌差町交差点から西をむいています。右の大きな木のあるところが鎌八幡です。
西

交差点の北東の角に六大院があります
六大院は、寺伝によれば、行基菩薩が創建したと伝えられるが詳しいことは分かっていない。創建年代は不明。
六大院


六大院名

2016.06.14

真田丸顕彰碑 善福寺 (4/5)

真田丸の中に坂道があったことが、江戸時代の地図に載っています。その坂の中頃に真田丸顕彰碑が建立されました。坂の北側には、夏の陣の戦死者を供養した善福寺があります。

 

 

 

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真田丸ジオラマ

 

心眼寺の前は坂になっていて(心眼寺坂)、真田丸の中心に位置します。
坂板

 

真田丸顕彰碑(心眼寺坂中ほどの明星学園グラウンドの横に2016年に設置されました。)
顕彰碑

 

顕彰碑内容
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明星学園のグラウンドの横にある真田丸顕彰碑
顕彰碑
 

 

心眼寺坂 南から北を写しています。左は、明星学園
坂

 

心眼寺坂の一番北側にあるのが
善福寺 どんどろ大師
「大坂夏の陣の戦死者」を供養するために、「大坂夏の陣の戦死者」を悼む文章と和歌が記された額が掲げられています。

 

善福寺


 

南無勝軍地蔵尊

 

平成21年(2009年)山門前に、歌舞伎「傾城阿波の鳴門 どんどろ大師門前の場」に登場する「お弓 おつる」母子像の銅像が建立されました。

 

どんどろ板

「そなた、国はどこじゃえ」と聞かれ、おつる(子)は国は阿波の徳島で、かかさんに会いたいゆえ、西国(巡礼)していると答えます。
「してして、かかさんの名は?」
おつる「アーイー、お弓と申します」
お弓(母親)は、その子が徳島に残してきた我が子だと気付き、自分が母親だと名乗りたいのですが、子に災難が及ぶと思いそれができません。「野に寝たり、人の軒の下に寝ては叩かれ」と泣く娘を見て、胸が張り裂ける思いのお弓。そんな彼女を「もしや母親では・・・」と察するおつるを必死でなだめて行かせます。
しかし、お弓は堪えきれなくなり、泣きながら娘を追って走り出します。
哀れなおつる(子)と、我が子を思うお弓(母親)の心情に、誰しも思わず涙してしまいます。

2016.06.12

真田丸の碑がある心眼寺 (3/5)

真田丸の中にお寺があったことが、江戸時代の地図に載っています。その中の一つ心眼寺には、この地に出城があったことを記す碑と真田幸村の墓があります。今回は、その心眼寺について紹介します。

 
地図左上の拡大地図表示をクリックしてください。別枠で拡大地図が見れます。

 

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真田丸の想像図
明星学園の辺りは真田山があり、真田丸を造りにあたり、相当盛り土をしたと思われます。

真田丸ジオラマ

 

 
心眼寺
心眼寺

 

入口に出城跡の碑が立っています
碑

 

幸村の墓
400回記念行事のひとつとして2015年に墓が造られました、墓と言うよりは、顕彰碑です。

墓

 

信繁墓板

 

本堂
本堂

 

まんなおし地蔵
心眼寺の境内には、「まん直し地蔵」と呼ばれるお地蔵さまが祀られています「まん直し(間直し)地蔵」は、間の悪い時に祈願すると、不運を直して幸運に変えるよう、ご利益を授けてくれるといわれています。
どんどろ

どんどろ

 

坂本龍馬を暗殺したといわれている京都見廻組の桂早之助と渡邊吉太郎の墓があります
見回り

 

心眼寺の前は坂になっていて(心眼寺坂)、真田丸の中心に位置します。
坂板

 

北から南に向かって写しています。
右:明星学園  左:心眼寺 像のある興徳寺
坂3
 

 

心眼寺坂 南から北を写しています。左は、明星学園
右側に大応寺 興徳寺 心眼寺と並んでいます
坂2

 

徳寺
天平年間(729年~749年)行基の開創

 

鯉の寺

 

興徳寺の准提仏母(じゅんていぶつも)七倶胝(しちくてい)仏母とも言い、無数の仏を生んだ母であることから、また古来インドで密教の女神であることから、仏母といわれています。
像

 

大応寺

 

2016.06.10

真田丸 三光神社の幸村像と抜け穴 (2/5)

真田丸の東側には、三光神社があって、そこに、幸村の像と真田の抜け穴があります。
今回は真田丸東側の三光神社、真田山小学校の辺りを紹介します。




東地図


JR玉造駅を出ると真田一色の真田ロードに入ります。そして、商店街も真田幸村で盛り上がっています。
ロード


真田幸村


商店街
商店街


すぐに三光神社の鳥居に着きます。この辺りから真田丸の東部分が構築されていたようで、地形も一段高くなっています。三光神社はこの上にあります。

三光崖


石垣が組まれていて、出城跡の雰囲気があります。
三光旗

鳥居


本殿
本殿


三光謂れ


略記

406年頃の創建の由緒ある神社です、出城があった場所とされ、大阪城から来るのに地下道を通ったと記されています。


顔だし


幸村像と真田の抜け穴
幸村と抜け穴


引き締まった顔  いざ!!!決戦
幸村顔


真田の抜け穴と思われていますが、入るとすぐに行き止まりです。どこに通じているのか、今でも謎です。
抜け穴3


三光神社の上は、陸軍墓地があります。
西南戦争、日清、日露戦争から、この太平洋戦争に至るまでの戦没者将兵を埋葬されています。遺骨は約4万3000余柱、墓標は4800柱と清国とドイツ戦病没者10柱が建立されています。 
墓地


陸軍墓地を降りるとこの辺りが崖であった跡です。この崖の上に真田丸がありました。


真田山小学校


真田山小学校は、崖のうえにあって、この辺りが真田丸の東側になります。学校の名前に「真田山」の名が残っています。学校の前の道路が堀であったようです。
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«真田丸はどこにあったか 1/5

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